自我の膨張

 とある禅愛好者 (182.165.187.188)  
座禅における神秘体験は、魔境といって切り捨てるものと聞いています。
神仏と会ったというのは妄想なんだそうです。
しかし名僧・高僧の悟り体験を読むと、悟り体験は凄いものだという話が多いように思います。だから悟りを開いた俺様は、凄いだという感じです。
ともすれば新興宗教の教祖と似たりよったりです。 ここが私にはよくわかりません。
 
>弟子玄明を破門追放するのはまだわかりますが(破門追放は厳しすぎるとは思いますが)、その弟子が座っていた床を叩き壊すというのはどうでしょうか。
 
小池心叟老師がインドに行った時のことです。
乗り合わせたバスが、人を引っ掛けた際に、「逃げろ」の一言だったそうです。
禅では、そこが素晴らしいと称賛されるのだそうです。
雨漏りには、ザルと桶のどっち?という逸話から理屈で理解することはできます。 https://www.engakuji.or.jp/blog/29979/
 
もっとも悟りに至らぬ身ですから、釈然としないところでもあります。
 
最後に、インドでは、ベニテングタケが自生していないので、幻覚を見るために使うソーマが作れない。だから体を痛めつける苦行や座禅で、脳内麻薬を分泌して、幻覚を見ようとしたと思っています。
これはインド哲学研究者よりの意見ですね。
宮元啓一だったと思いますが、釈尊は座禅が好きだっただけという意見もありますね。
 
 
 
最後の『釈尊は座禅が好きだっただけ』ということに関して。
 
釈尊は、成道後も、よく坐禅(瞑想)をしていました。
ですから、『釈迦は悟った後も修行を続けた。永遠に修行は続けるものだ。』とか『釈迦も達磨もいまなお修行中』などと禅の人はよく言います。
 
なぜ、釈尊は、悟った後も坐禅(禅定)していたかという理由は、はっきりとしています。
『楽しみのため』『安楽であるため』です。
成道直後も、『釈尊は解脱の楽しみを味わいつつ座っていた』とあります。
私たちは、思考が快楽であり楽しみなわけですが、釈尊は、思考がない状態が安楽だったのでしょう。
決して、修行として座っていたわけではないのです。
そういう意味では坐禅が好きだっただけとも言えますが。
つまりは軽安だったのでしょうね。
 
 
>>小池心叟老師がインドに行った時のことです。
>>乗り合わせたバスが、人を引っ掛けた際に、「逃げろ」の一言だったそうです。
>>禅では、そこが素晴らしいと称賛されるのだそうです。
 
 
これ、ひどくないですか?
他人に車をぶつけていて『逃げろ』はないでしょう。
怪我がないかどうか、心配するのが当然です。
このような無責任な行為を称賛するのが禅であれば、やはり禅には智慧がないと言わざるを得ません。
 
 
>>雨漏りには、ザルと桶のどっち?という逸話から理屈で理解することはできます。 https://www.engakuji.or.jp/blog/29979/
 
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 京都の妙心寺を開山された関山慧玄禅師は、とても枯淡な暮らしをしていました。
ある時、雨漏りがして、禅師は寺で修行していた小僧さん達に、何か器をもって来いと言いました。
   ある小僧さんは、とっさにザルを持って差し出しました。禅師は、この小僧さんを大いに褒められました。
  ある小僧さんは、台所に行って、何か良い器がないかと捜して桶を持ってきました。これに対して、禅師は、役立たずめと言って叱りました。

 常識で考えれば、雨漏りにザルは何の役には立ちません。桶の方がずっと役に立ちます。
 しかしながら、禅ではそんな常識を重んじません。その時、その場、何の分別もまじえずにとっさのはたらきを尊びます。 役に立つとか立たないというのは二の次なのです。
 でも、そうかといって、このマネをしたところで、禅師から大目玉をくらうことは言うまでもありません。あくまでも、その時その場でどう動くか、心のはたらきが問われているのです。
※※※※※
 
 
はっきり言って、馬鹿馬鹿しいです。
分別知を蛇蝎のように嫌って、無分別の働きが最高と考えているらしいことはわかりました。
しかし、『何か器を持って来い』と言われてザルを持ってきた小僧は、ザルが器だと分別しているではありませんか。
もう分別しているにもかかわらず、ただ頭が悪かったので雨漏りには役に立たないということに思い至らなかっただけです。
それでは、器でないもの、例えば袈裟を持ってきたらどうでしょうか。これも、『持って来い』という言葉を分別して持ってきているのです。
 
こういうことばかりやっているから、禅では、
『分別知に捉われない凄い俺』
『分別の世界にいるお前らとは違って、無分別の世界に生きている素敵な俺』
という自我が膨張した者だらけになるのです。
 
禅愛好者とのことですが、それであれば、数多くの禅者を近くで見ることも多いでしょう。
はっきりいって『あれ?』と思うようなことはありませんか?
普通の人より人格が低劣だな、とか。
 
それは『悟った』という体験そのものが、自我になってしまうからです。
こうなるともう、鼻持ちならない、大変なことになってしまいます。
 
そうなるともうその思い込み、自我の膨張を打ち消す方法がないのです。
例えば、実業の世界でも、株の世界でも、成功して傲慢になる人は多くいます。
しかし、実業にしても株にしても、客観的な結果がはっきりとしている世界です。
客観的な数字で判断できるのです。
いくら自分勝手に『俺は経営の天才だ』と思い込んでいても、経営者は年に一度は決算書を税務署や金融機関に出さなければいけません。上場企業であれば株主に公開しなければいけません。
1年間の実績は数字で表されるのです。
いくら自分が優秀な経営者と思っても、会社を倒産させれば、誰が見ても無能という烙印を押されます。
株にしても、毎日毎日、毎瞬毎瞬、株式評価額総計という形で、自分の資産の増減、勝ち負けははっきり数字で示されます。
いくら自分勝手に『俺は株の天才だ』と威張っても、自分の資産を全部溶かしてしまったら、完全な無能ということです。
このように、いつも、客観的な結果が目の前に現れ続けるのです。
しかしながら、宗教の世界はそうではありません。
『俺は悟った』『俺は救われた』『俺は目覚めた』と言ったら、それが本当かどうかなど誰にもわからないのです。
ですから、いったん、自分勝手に『俺は悟った凄い人間だ』と思い込んでしまったら、もうそれを打ち消すことができないことになります。
 
ですから、宗教を自我にしてしまったら、もう手が付けられないほどの膨張となるのです。
非常に怖いことです。
 
 
 
 とある禅愛好者 (182.165.187.188)  
>釈尊がいい加減とはどういう根拠でしょうか。
>肉を食べたからですか?
 
その通りです。ただし「ある意味では」です。
不摂生について、ジャイナ教よりも、徹底していませんよね?
ジャイナ教は、故意でなくても、アリを踏み殺すのも禁止です。
仏教は、故意でなければ、許されるのでは?
肉食も、ジャイナ教は完全禁止ですが、 仏教は、食べて良い基準を設けていますよね。
私は、そのユルさが仏教の魅力であり、ジャイナ教よりも仏教が興隆した理由だと思っています。
 
>しかし、それであっても、あくまでも、禅僧である限り、メインは座禅修行です。
>そこを外してしまったら、農作業が修行だと言って農作業だけして悟れるはずです。
 
「静中の工夫より、動中の工夫」という言葉があります。
禅宗では、座禅だけが禅の修行なのではなく、作務もまた禅の修行です。
だから禅僧の悟りの体験には、座禅中の悟りだけでなく、 作務や日常生活のふとした瞬間の悟りの体験があるのだと思います。
もちろん、これは、禅僧だけに言えることです。
そして、ともすると座禅不要とまで言う場合もあります。
もっとも中国の禅と日本の禅の違いもあるかもしれませし、いわゆる禅的表現に過ぎないかもしれません。
ちなみに日本の臨済宗系の僧堂は、修行が、座禅中心、作務中心、お参り中心、バランス型などとなっています。
良し悪しは、横に置いておきます。
百丈懐海の話の流れででてきた話題だったので、禅の枠組みの中での話だと考えて、 このように指摘しただけであって、釈尊の仏教とは違うことは理解しています。
 
それからインド哲学研究者の宮元啓一や曹洞宗の南直哉は、 釈尊の開いた何かしらの悟りなるものがあるとしても、 四聖諦も十二縁起も、悟りなるものの説明概念に過ぎないのようなことを言っています。
釈尊の悟りは誰もがわからないし、 禅の老師の悟りが、釈尊の悟りと同一であるかどうかは証明はできない、ということです。
また悟りを開くということについてでは、スッタニパータなどの初期仏典には、 釈尊の話を聞いただけで、悟りを開く出家が数多くいます。
宮元啓一は、釈尊は好きだったから座禅をしていただけで、 座禅をしたから悟りを開けたわけではないとまで言っていたかと思います。
私的には、悟りは、知識で理解できることであって(もっとも私はまだまだ不十分な理解です)、 むしろ悟後の修行、つまり理解した悟りの通りに、自然に生きていけるようにすることが重要なのかなと思います。 (冷暖自知というように、知識レベルの悟りを、体験することも重要ですけれど)。 武道で、意識して型を練習して、意識せずに型通りにできるようになり、 型を破っても型を破っていないところまで到達するのに似ているのかもしれません。
ただし、これも一つの考えであって、それ以上でもありません。
 
>怒りにまかせて、道場を破壊するという行為に、私は慈悲喜捨の心を見ることができない、
>物に八つ当たりするのはどうして?と疑問に思っているのです。
 
私も釈然としないところではありますが、 例えば禅のロジックでは、はからいをしない心が良しとされるので、 道元が心を素直に出したのは良いのではないでしょうか?
立松 和平は、 道元は、貪るな、へつらうな、ということは徹底されていたから、と言っています。 https://www.soto-kinki.net/sp/zenwa/lecture_dogen.php
 
曹洞宗の長福寺では、 権力に近づいて己の名誉や欲に走ってはいけないことをほかの修行僧にも示すためだった、ということです。 http://www.choufukuji.or.jp/blog/2013/11/22_1410.html 逸話そのものが創作だという話もあります。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14122522339
慧可断臂は、鎌田茂雄によると盗賊に切り落とされたのが真実らしいです(般若心経講話)。
なので創作説が、私としては好みです。
 
 
 
 
 
資料の信頼性についてはこうあります。
 

この「訂補建撕記図会」は建撕師の「永平高祖行状記」を面山瑞方が訂補した道元禅師の行状記に基づき描かれた図会文章であり、現今では否定あるいは疑問視されている箇所も多い。

従って、この「訂補建撕記図会」は道元禅師行状記としては信頼出来ない部分も多くあるが、しかし又、参考になる箇所も無い訳ではない。

さらに従来より、この「訂補建撕記図会」を基に書かれた「道元禅師伝」も多く出版されているため、敢えて、ここに掲載する。

 

道元禅師の伝記は従来「面山本・訂補建撕記」に依るところが多い。
しかし昨今は面山本より古い「天正本・瑞長本」の正確な記述を参照するようになった。
昭和37年1月15日発行の小川霊道編集の「永平高祖行状建撕記」の「序」(永久岳水・著)には概略、次のように書かれている。
『建撕和尚の永平高祖の行状記は一般に建撕記と言われている。これは最初に面山和尚が出版した建撕和尚の永平高祖行状記が「永平開山行状建撕記」或は「永祖行状建撕記訂補」と標題されたいたからで、宗典の名称としては適当であると言えない。建撕は正しく永平高祖行状記の著者である。面山和尚出版の永平開山行状建撕記は面山和尚が修訂したところがあるに加えて削減した部分が多く、建撕和尚が書き残されたものの全体ではない。這回発見されたもの(天文本)は建撕和尚が著述された当時の本来の容姿を伝えているもので、其の内容も面山本に較べて非常に多く、謄写上の過誤も無く、文体も整えられている。この完全な永平高祖行状記が現れたので、永平高祖の御伝記の中でも書き直さねばならぬことが起り、傘松道詠や永平寺上代史の研究には新資料を豊かに供給することとなろう。』
 
 
つまり、永平寺編纂の道元行状記でも、面山和尚が出版した面山本、そしてその面山本に基づく「訂補建撕記図会」は、面山和尚が勝手に加筆、修訂、削減した部分が多く、信用性に欠けるようです。
天文本が完全な写本ということのようです。
 
 
 
 とある禅愛好者 (182.165.187.188)  
>禅愛好者とのことですが、それであれば、数多くの禅者を近くで見ることも多いでしょう。
>はっきりいって『あれ?』と思うようなことはありませんか?
>普通の人より人格が低劣だな、とか。
 
私は、先に次のように書いていますよ。
「2021-09-01 瞑想と人格」の記事についての私のコメントです ーーーーーーーーーーーーーーーーー 座禅における神秘体験は、魔境といって切り捨てるものと聞いています。神仏と会ったというのは妄想なんだそうです。 しかし名僧・高僧の悟り体験を読むと、悟り体験は凄いものだという話が多いように思います。だから悟りを開いた俺様は、凄いだという感じです。ともすれば新興宗教の教祖と似たりよったりです。 ここが私にはよくわかりません。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー
禅に限らず各宗派の名僧・高僧の悟り体験は、悟りという神秘体験をした俺様は凄いんだぞ。 体験していない凡人とは違うんだ。お前ら凡人も難しいけど、体験してみろ。 という感じに見えてしまうということです。
それから禅に限らず、どの宗教であっても、熱心な信者は、『あれ?』と思うことは少なくありません。
素晴らしい宗教の信者である自分は、信者であるだけで素晴らしい人間であるという感じですね。
 
本人は何の修行もせず、信者になる前と後では変わっていないのに、信者になっただけで、素晴らしい自分であると主張するという感じでしょうか?
もっとも純朴な信者の方は、単純に神や仏に対する感謝だけで、それゆえ自身の偉大さを主張することはなく、その意味では素晴らしい方が少なくありません。
また小池心叟老師のインドでの話ですが、禅の逸話から理屈で理解することはできるけれど、「もっとも悟りに至らぬ身ですから、釈然としないところでもあります」とも書いています。
この「釈然としない」というのは、ショーシャンクさんのいう「feel goodでない」ということに似ているのかもしれません。
禅のロジックでは、そうなんだろうなと理解するだけで、それを良しと受け入れられるかどうかは別ですよね。
宮元啓一は、釈尊の時代に既にオウム真理教のポア思想の原点はあると指摘していますし、日蓮は、秋元御書の中で、折伏を拒否した者は殺して良いとも読めることを言っています。
この読めてしまう、解釈できてしまうということが問題で、だからこそ血盟団事件の井上日召や、オウム真理教の麻原が出てきてしまうのだと思います。 私自身にとっては、釈尊や日蓮は、ポア思想を肯定したのではなく、他の解釈ができるはずだけれど、未熟な私には理解できないから、棚上げするという感じでしょうか?
本当にポア思想なのであれば、「釈然としない」ですし、つまり「feel goodでない」と思いますよね。
ショーシャンクさんの仏教理解の視点が面白くて、ブログを拝見していました。 だから私は、ショーシャンクさんの仏教を否定したいのではないし、そもそも他人の信仰にケチをつける必要はないと思っています。 単純に、托鉢中心の都市仏教と、作務中心の山岳仏教ということではなかったかなあと思って書き込んでしまっただけです。 道元の話で、禅宗だから質素を良しとするのだから寄進の有無を考えなければ、単純に、托鉢で食べていくか、作務で食べていくかという話ですよね。 道元にとっては良い寄進と悪い寄進があって、釈尊にとっては食べられる肉と食べられない肉があるというのは、既にお話ししましたよね。 この辺りは、それぞれの考えがあるのかと思います。 そこから話が広がりすぎてしまったように思います。たぶん禅宗のことで話していた私と、仏教ということで話していたショーシャンクさんのズレなのかなと思います。あまり喧々諤々にはならずに、のんびりとやっていきたいです。