資料の良し悪し?

石飛先生が私について書かれていました。

 

 

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ショーシャンクさまにとっては、思い込みではなくて、記された事実、(すなわち、歴史上の仏陀が何をしたのか、に類するもの)として、取り上げられているのだと思います。逸話だから、記された事実として、それを取り上げるのは自由ということだろうと思います。
ただ、そこにはその事実(?)を取りあげるその人の意図は、ほとんど言及されていません。
なぜなら
=====ショーシャンクさまのブログ■歴史上のブッダがほんとうは何を言ったかを知りたいだけです
例えば、キリスト教ではそのようなことは起きません。
何故かと言うと、四福音書は確定しているからです。
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と書いてあって、資料の良し悪しまでは問題にしていないことが分かるからです。

でも、実際には、四福音書についても、いろいろ議論があります。
共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)とヨハネの福音書は、ずいぶん違っていることが指摘されています。
Q資料の存在などもいわれていて、ごちゃごちゃしています。また、荒井献氏が『トマスによる福音書』を出していて写本が発見されると、驚くほどの違いが浮かびあがります。
資料を選ぶ、という段階で、すでに「思い込み」が入っているかもしれない、ということを指摘できそうなのですが、ショーシャンクさまは気にしないかもしれないな、と思います。

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まずは、この議論の最初にあるのは、私がブログで書いた道元の玄明追放についての感想です。

その『逸話』の典拠である資料の良し悪しを私が気にしないと言われています。

多分、先生も、この逸話が永平寺編纂の道元行状記(永平高祖行状建撕記)によるものだとご存じないのでしょう。

道元の玄明追放の逸話が、道元を貶すために作られたでっち上げの可能性を思われたのでしょう。しかし、事実は、永平寺が開山、宗祖の道元の行状を記したものです。

 

『四福音書は確定しているからです。』と言う私の言葉にも、疑問を持っておられるようです。

その理由として『でも、実際には、四福音書についても、いろいろ議論があります。共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)とヨハネの福音書は、ずいぶん違っていることが指摘されています。Q資料の存在などもいわれていて、ごちゃごちゃしています。また、荒井献氏が『トマスによる福音書』を出していて写本が発見されると、驚くほどの違いが浮かびあがります。』と書かれています。

 

しかしながら、この指摘では、『四福音書が確定している』ということの反証にはなりません。

四福音書を無視するキリスト教者はいませんし、四福音書の価値を否定するキリスト教者もいません。四福音書を聖典としないキリスト教宗派はありませんし、すべてのキリスト教者は四福音書の中のイエス・キリストの言葉のみをイエスの言葉として認識しています。

これが、四福音書が確定しているということです。

 

仏教では、いくらスッタニパータが最古層の仏典ということがわかっても、スッタニパータを所依の経典とする日本の仏教宗派は一つもありません。

それどころか、原始仏典に関する本を日本仏教の宗派の僧侶が出しただけで本山からとがめられるほどです。

 

 

最後にこうありました。

 

どんな人も拒まないのが仏教だから、誰でもが好き放題に言えるのです。
でも、その中で、誰が仏陀の教えに預かり、誰が教えに預かっていないか、みんなの目には見えてくるのでしょう。

 

これを本当に見たら『あれ?』と思ってしかるべきなのですが。

人間というのは思った以上によく見ているものだと思います。

ですから、どのようなジャンルにおいても、時間を経ることによって名作という評価がなされたりするのでしょう。

ヤフー掲示板の仏教板(東洋哲学板・哲学板)にいたのは、最後の2年足らずでしたが、他の人たちは10年、20年とそこにいる人たちばかりでした。

もう10年以上も毎日毎日投稿している人も何人かいました。

もちろん10年もあれば、『誰が仏陀の教えに預かり、誰が教えに預かっていないか、みんなの目には見えてくる』はずです。

もし、10年以上も毎日投稿しても賛同者が一人もいない場合は、『あれ?ひょっとしたら教えに預かってないかも?』と考えてしかるべきかと思います。