>>農作業が修行であると考えるのが、禅では?
>>だから禅では、農業に専念できるはずです。
これは百丈から始まった考えです。
それまでは、仏陀の戒律を守っていたために、出家者は農作業はしませんでした。
農作業を座禅修行をしないときに作務として行なうことは可能でしょう。
その作務も仏道だという考えに百丈がしたのですから、それはそれでいいでしょう。
しかし、それであっても、あくまでも、禅僧である限り、メインは座禅修行です。
そこを外してしまったら、農作業が修行だと言って農作業だけして悟れるはずです。
座禅修行の片手間に農作業を作務としてするのと、
農業ですべての生活費をまかなおうとする、つまり農業を職業とするのは違います。
農業で生活を立てようとするには、畑を耕すといった単純作業ばかりではどうにもなりません。
生活費のすべてを農業で出そうとすれば、より収入になる農作物を選定し、限られた面積でより多くの収穫を得られるように計画しなければいけません。
自分が食べるだけならいいですが、市場で売れる物となると、害虫をいかに駆除し、あるいか、山中で多くいる猪や猿、鳥などから農作物を四六時中守らなければいけません。
つまり、一日のほとんどすべての時間を農業のことを考えていなければいけないことになります。
それが専業農家です。
ですから、仏陀は、修行に専念するために、托鉢で食っていって、労働に従事してはいけないとしたのです。