道元の玄明追放の話が出たので、この機会に、仏教における布施、寄進について、つまり経済的な側面について書いておきます。
道元は、執権北条時頼からの寄進状を持って帰った首座の玄明を破門、追放し、玄明が坐っていた床を壊し、その床の下の土を7尺(2m10cm)掘って捨てました。
仏陀はどうだったでしょうか。
そもそも仏教はその最初から、出家者は、在家者の布施によって食べていくシステムだったのです。
仏陀は、自ら食べるものは、午前中に家を一軒一軒回って、お布施してもらうのが基本でした。これを托鉢と言います。
ですから、仏教教団が成り立つのは、都市部郊外、集落の近くです。都市部の真ん中では瞑想には騒がしいですし、人里離れた山奥では托鉢ができないからです。
仏陀は、国王からも長者からも高級遊女からも多くの布施や寄進を受けています。
土地や建物も寄進されています。精舎です。
信者の邸宅に招かれていって御馳走になることも頻繁にありました。
それが当然だったのです。
これに異を唱える人が出てきました。
提婆達多です。
修行者は、精舎に住んだり、邸宅に招かれて御馳走を受けるべきではない、あくまでも、野外で寝起きし、食は托鉢に限るべきだと主張しました。
そして、比丘たちの大多数の賛成を得ていました。
しかしながら、仏陀にしても提婆達多にしても、出家者は布施に頼って生活することは同じです。
先にも書きましたが、托鉢で生活するには、都市近郊であることが必須です。人里離れた山奥では托鉢できません。
ところが、日本の特に禅宗では、人里離れた山寺が多くあります。
托鉢できないのに、なぜ山奥の寺が存続できるのでしょうか。
それは、そこの領主などの寄進や援助によるものです。
永平寺も領主波多野義重の寄進によります。
仏教の最初から今まで、すべての時代において、出家者は在家の人の布施や寄進によって存続してきたのです。
永平寺も例外ではありません。
それを、弟子が寄進状を受け取ってきたからと言って、即刻破門追放して床を壊し土を人間の身長よりも深く掘り返すとは、私にはこの行動はいかがなものかと思わざるを得ません。
それであれば、一切の寄進を受けず、自分の力で農業などして自給自足の生活システムにすればいいのです。
寄進を受けて生活していないものだけが、弟子が寄進状をもらってきたと言う理由で追放することができます。
こういうことの馬鹿馬鹿しさを見るので、私は、これからの修行者のあり方は、一切他人にお金も物品ももらうことなく独立すべきだと思っています。依存することが最も精神には悪いからです。
働けるときに金儲けに励んで、もう稼がなくても一生生活できる財力になったら、出家して修行すればいいのだと思っています。
禅の自給自足の考えの発祥をご存じですか?
『一日作さざれば一日食らわず』の百丈から始まります。
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インドの大乗仏教と小乗仏教では、出家者が自らの労働を戒律で堅く禁じられていた。そのため出家者は托鉢乞食や信者からの布施だけに頼っていた。仏教が中国に伝播してきた頃はその戒律が守られていたが、出家者が急増し管理不達のため社会秩序への悪影響が深刻となり、さらに唐代中期以後、朝廷による僧侶淘汰命令が発され、貴族からの布施が途絶え寺院経営が成り立たなくなっていた。出家者たちは、やむを得ず生活の手段として耕作労働をするようになり、思想面の混乱が続いた。その時に、百丈は革命的にそれまでのインド仏教の戒律と、当時中国の環境および習俗などを折衷し改革を行った。労働こそは"仏のはからい″であり"仏のすがた″であり、労働は一番重要な修行であることとして解釈を改め、中国特色の戒律改革を唱えた。
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まず、大前提として認識していなければいけないのが、出家者は労働してはいけないというのが、仏陀が定めた戒律です。
ところが、唐の時代の中国で、托鉢する出家者が急増し、社会問題になったことから、なるべく自分が食べるものは自分たちで作ろうという考えが起きてきました。
要は、出家者が増えすぎたために、需要と供給のバランスが崩れ、寺院経営が成り立たなくなったということです。
それでやむを得ず、戒律を破って、労働に勤しむことになったというわけです。
百丈は、ここにおいて、価値観の大転換をさせました。
出家者は労働してはいけないというのが仏陀以来の仏教の絶対の戒律だったのですが、むしろ、労働(作務)を奨励し、作務こそが仏道というように180度変えたのです。
しかし、それによって、寄進や布施を頼ることなくすべてを自給自足できたかどうかは別です。
人間の生活費は食べるだけではないからです。
寺の維持費も膨大にかかります。衣服も医薬品も必需品です。
さすがに最初期のように糞掃衣というわけにはいきません。
そもそも、お寺という土地と建物が必要です。
また、平地であればある程度の僧を養える広大な田畑は確保できるかもしれませんが、山奥であれば、耕作する畑もほとんどありません。
農業の専門家である在家の農家でさえ、農業で生活することは非常に難しいことでした。
なかなか思うように収入が得られるものではないのは、歴史を見ればわかります。
古代や中世の農業従事者のほとんどは食べるのにやっとという状態でした。
それが、農業の素人集団であり、まともな田畑があるわけでもなく、修行第一で農業に専念できるわけでもない出家集団が、すべての生活費、寺院運営費を、できた農作物でまかなえたかと言うとそれは無理と言わざるを得ません。
百丈の改革によって、それまでの仏教の戒律を破って、自らも労働(作務)し始めた禅僧たちも出てきましたが、それでも、寄進や布施を全く受けない完全自給自足の生活ができた例は私は知りません。私が知らないだけかもしれませんが。
もし、ご存じであれば、その例を教えてください。
永平寺も開創から領主の波多野義重の寄進を受けていたと思いますが。