ずっと前に、道元の玄明追放について触れたのは(今回その記事を誰かが蒸し返してきましたが)、自分だけの金儲けに奔走している人たちより、宗教に関わっている人たちの方が人格が悪いことが多いからです。
前にも書きましたように、ヤフー掲示板でもそうでしたし、実社会でもそう思います。
口でいくら悟りすませたようなことを言っても書いても、やはりそれが本当にその人の全人格に顕われているものかどうかが最も重要な視点だと思っています。
仏教の究極は『捨』=upekkha です。
私を含めすべての迷いの衆生たちは、感覚で何かに触れたら、それまで溜め込んできた記憶の束=自我が反応してしまいます。
これがあるために、精神は限られ覆い被されたものとなっているのです。
いくら自分で『瞑想の達人だ』『座禅の名人だ』と言っても、あるいは師匠から印可を受けても、『私という中心』の消滅には全く至ってない人ばかりです。
これが本当に不思議で仕方なかったのです。
しかし、最近やっとその謎がわかり始めてきました。
いくら何時間座禅をしても瞑想をしても、瞑想中には悟ったような感覚を経験できるかもしれませんが、自我の成り立ちを洞察しない限り、玉城康四郞博士が『ダンマの顕現』で書かれているように、いくら悟っても、爆発体験しても『元の木阿弥だった』ということです。
瞑想をしていれば神秘体験に近いことはあるでしょうけど、仏陀が凄いのは、そのようなものでは『解脱に赴かず、涅槃に赴かない』として、智慧の道を選んだことです。
どんなにすばらしいことを口で言っても、ある場面にあってその人が癇癪を起したりしてしまえば、それは全く『私という中心』が消滅していないことの証です。
物に八つ当たりしたり、関係ない人に八つ当たりすることがあった場合は、その人は全く涅槃にかすってもいないということです。
株の世界でもよくあります。
投資家で、自分が予想したのと反対の結果になったときに、見ているモニターを壊す人がいるのです。
株で損をしたのは、モニターのせいではありません。
モニターを壊せば、その人が損するだけです。
それでも、人は、無意識のうちに、物に当たってしまうのです。
私は物に八つ当たりすることはないのですが、このようなことはよく聞きます。
弟子玄明を破門追放するのはまだわかりますが(破門追放は厳しすぎるとは思いますが)、その弟子が座っていた床を叩き壊すというのはどうでしょうか。
その床は、多くの修行者が修行する道場の床です。
神聖な道場を破壊してどうするのでしょう。
さらに、2m以上も土を掘るというのも普通ではありません。
このような反応をしないのが仏教です。