さて、中部経典2番目の『一切煩悩経』です。
この経典は、非常に重要です。
仏陀は、こう言います。
『あらゆる煩悩を防止する法門を説きます。』
そして、『私は、知る者に、見る者に、もろもろの煩悩の滅尽を説きます。知らない者に、見ない者に、ではありません。』
何を知る者でしょうか。仏陀は、『正思惟』と『邪思惟』といいます。
思惟すべきではない法つまり邪思惟とはこう説かれます。
1,私は過去に現われたのか、現われなかったのか。
(常住の様相と無因生起の様相によって、過去における自己の存否を疑う)
2,私は未来に現われるのか、現われないのか。
(常住の様相と断滅の様相によって、未来における自己の存否を疑う)
3,私は存在しているのか
4,私は存在してないのか
5,私は何であるか
6,私は、どのようにあるか
7,どこから来ているのか
8,どこへ行く者になるのか
このような疑いを持ちます。
このように邪思惟するかれには、次の六見のうちいずれかの見が生じます。
1,私には我がある(有我)
2,私には我がない(無我)
3,我によってのみ我を思う
4,我によってのみ無我を思う
5,無我によってのみ我を思う
6,私の我は、常住、堅固、常時、不変、永久である
それでは、正思惟とは何でしょうか。
これは苦であると正しく思惟します
これは苦の生起だと正しく思惟します
これは苦の滅尽だと正しく思惟します
これは苦の滅尽に至る道だと正しく思惟します
この正思惟によって、有身見・疑・戒禁取の3つの束縛が断たれます。
この経典が重要だと思うのは、邪思惟から生じる邪なる六見に
有我と無我が入っているからです。
仏教なるものは、無我を旗印にしてきました。
確かに『私という中心』つまり自我、自己限定には実体がない幻想であるという意味では無我なのですが、その自我という中心が消滅した後も何にもない『無』というのは、断見であり、邪見の1つです。