形成力だけが残る

 遠佐 (126.77.139.124)  
肉体が破れ死んだとしても、kammaによる形成力は五蘊を集めます、と仰いますが、具体的には色は焼かれて灰と骨になります。
他はどうなるのでしょう。
私という中心は固定して残るのですか。
kammaはどうして残るのですか。
その理由がわかりません。
もっと詳しくお願いいたします。

 

 

kamma は、身・口・意 の行為です。

身業・口業・意業です。

このうち、意業は、思業といって、意思の内的活動、想い、です。

身業と口業は、思已業といって、想いが外に表われたものです。

つまり、kamma とは、想いのことなのです。

 

この kamma が、今、生きているこの瞬間瞬間も、絶えず、この身体と環境を形作っていきつつあります。

人間は、肉体を持ち、感官を持ち、感覚を経験していますから、どのような感受であっても、それまでの記憶の束が反応して、止めどない思考を生み続けています。

連想が連想を呼びます。これが激流です。

『私という中心』を持ったために、人間は誰しも欠乏感を抱えてしまいます。

水の少ないところでパクパクしている魚のように、欠乏感に焦がされて生きており、その想い、kammaが、人間存在を苦の集積に押し流して行っています。

このように業(kamma)は、今までの一部の仏教のような、前世の業が今世に現れているというようなものではなく、それまでの想いのすべてが、今の身体・環境を形作り続けている、ということです。

生じるものは必ず滅しますから、五蘊が集まって形成された個我は、その中心から出た想いを絶えず出しつつ、時が来れば、肉体破れ五蘊はいったんバラバラになります。

この肉体は腐り骨になり灰になり土に還ります。五蘊の他の要素もバラバラになり雲散霧消しますが、しかし、解脱しない限り、それまでの執着のkammaによる潜在的な形成力が、また、五蘊を集めさせます。個我の生まれです。

 

つまり、心霊主義がよく言うように、『私の霊魂』『私の前世』『私の来世』という実体のあるものがあるわけではなく、渇愛を持つ限り、潜在的な形成力が、五蘊を集めてしまう、ということです。

その五蘊の集まりを思考で『私』と思いこんでいて苦しんでいるのです。

ゆえに仏陀は、五蘊非我と観じなさいと説いたのです。

 

 

私が、仏陀の理法から得られたのは以上です。

これ以上は口で説明するのは非常に難しいです。

そしてこれは、あくまでも、私の解釈にしか過ぎません。

間違っている可能性も大変高いです。

ただ、私はそう思っていると言うことです。

私の言っていることを信じろとは全く思いません。

仏陀の真意は、自燈明法燈明により、他に頼らずに、自らが探求していくべきものなので、少しでも探求の参考になればうれしいですが、参考にならなくてもそれは仕方ないことです。