kamma は、身・口・意 の行為です。
身業・口業・意業です。
このうち、意業は、思業といって、意思の内的活動、想い、です。
身業と口業は、思已業といって、想いが外に表われたものです。
つまり、kamma とは、想いのことなのです。
この kamma が、今、生きているこの瞬間瞬間も、絶えず、この身体と環境を形作っていきつつあります。
人間は、肉体を持ち、感官を持ち、感覚を経験していますから、どのような感受であっても、それまでの記憶の束が反応して、止めどない思考を生み続けています。
連想が連想を呼びます。これが激流です。
『私という中心』を持ったために、人間は誰しも欠乏感を抱えてしまいます。
水の少ないところでパクパクしている魚のように、欠乏感に焦がされて生きており、その想い、kammaが、人間存在を苦の集積に押し流して行っています。
このように業(kamma)は、今までの一部の仏教のような、前世の業が今世に現れているというようなものではなく、それまでの想いのすべてが、今の身体・環境を形作り続けている、ということです。
生じるものは必ず滅しますから、五蘊が集まって形成された個我は、その中心から出た想いを絶えず出しつつ、時が来れば、肉体破れ五蘊はいったんバラバラになります。
この肉体は腐り骨になり灰になり土に還ります。五蘊の他の要素もバラバラになり雲散霧消しますが、しかし、解脱しない限り、それまでの執着のkammaによる潜在的な形成力が、また、五蘊を集めさせます。個我の生まれです。
つまり、心霊主義がよく言うように、『私の霊魂』『私の前世』『私の来世』という実体のあるものがあるわけではなく、渇愛を持つ限り、潜在的な形成力が、五蘊を集めてしまう、ということです。
その五蘊の集まりを思考で『私』と思いこんでいて苦しんでいるのです。
ゆえに仏陀は、五蘊非我と観じなさいと説いたのです。
私が、仏陀の理法から得られたのは以上です。
これ以上は口で説明するのは非常に難しいです。
そしてこれは、あくまでも、私の解釈にしか過ぎません。
間違っている可能性も大変高いです。
ただ、私はそう思っていると言うことです。
私の言っていることを信じろとは全く思いません。
仏陀の真意は、自燈明法燈明により、他に頼らずに、自らが探求していくべきものなので、少しでも探求の参考になればうれしいですが、参考にならなくてもそれは仕方ないことです。