『私の意識』『私の霊魂』『私の前世』『私の来世』という迷宮に入り込んでいる限り、すべての理論、すべての言説、すべての回答は、ただ、私という中心に付加され記憶の束のひとつになっていくだけです。
『私という中心』の成り立ち、欺瞞性を徹見しない限り、知識の束のひとつとして、中心を形作っていくだけです。
中心の成り立ちを洞察していくことによってのみ、中心を消滅させることが出来るでしょう。私はまだ中心を消滅させているわけではなく、自我の成り立ちを洞察していく過程にあります。
死後の世界や輪廻転生は極めて微妙なもので、これは各々が瞑想により、いまある潜在的形成力を感じ取っていき、その形成力が次々と未来の(数時間後、数ヶ月後、数年後、数十年後の)身体、環境を形成し続けていることをありありと感じなければ、ただの空理空論になってしまいます。
解脱しない限り、潜在的な形成力が消滅することはなく、いったん今集まっている五蘊がバラバラになってもまたその潜在的形成力が身体の構成要素を集めていくのだと考えます。
一応、対語的に回答しますと、
質問『肉体が破れ死んだとしても、kammaによる形成力は五蘊を集めます、と仰いますが、具体的には色は焼かれて灰と骨になります。他はどうなるのでしょう。』
これは既に回答しています。
他もバラバラとなり雲散霧消します。
しかし、潜在的形成力は残り、また身体の構成要素を集めます。
質問『私という中心は固定して残るのですか』
『私という中心』とは、我ありという思い込みのことです。意識が構成要素の集まりに自己同化することです。
潜在的形成力が新たに構成要素を集め、その構成要素の集まりに意識が自己同化します。
質問『kammaはどうして残るのですか』
kammaは潜在的形成力となって残ります。形成する力だからです。
それを仏陀は三明によってありありと見たのです。
質問『次の世では人間ではないかもしれません。そうしたら、遠佐の意識はないですね 例えば、犬になったら、遠佐ではないですよね。こうしたことはどう考えますか。』
『遠佐の意識』って何ですか。
それを本当に深く瞑想し、洞察したことはありますか。
遠佐さんという肉体があり名前があり記憶の束がありそれら全体に意識が自己同化して苦しんでいます。それが次々とkammaを作り出し、潜在的な形成力を生み出しています。
この身体が滅しても、その潜在的な形成力が天界なり地獄なりに赴かせ、そしてまたこの世の五蘊を集め転生します。
新たな身体に自己同化して苦しむことがつづくというわけです。
それが犬であれ、違う名前の人間であれ、そこに自己同化して苦しむことがなくならないということになります。
『私の魂』『私の霊魂』『私の前世』『私の来世』ということ自体、幻想です。
そう思い込んでいるという事実があるだけです。
何度も言いますが、これは私が仏陀の理法をそう理解していると言うだけに過ぎません。
ですから、信じる必要もなければ、いやいや仏陀はそんなことは言わなかった、ということであればそれで構いません。
ここは、瞑想して、観ずること、感ずること、がなければ、本当の理解は難しいと思いますし、スルーしていただいて、大多数の仏教者、仏教学者のように、死後の世界はない、輪廻転生を仏陀は説かなかったと言うことでもそれでいいと思いますよ。
あくまでも、私個人が、上のように確信していると言うだけですから。