仏陀は、見解(ditthi)を持たないように説いた、と解釈する人がいるようですが、全く違います。
ditthi =見解 という言葉は、それだけだと、邪見解、悪見解という意味になることが多いので、『ditthiを持たない』という箇所もあるかもしれませんが、その場合の『ditthi』は明らかに邪見解という意味です。
仏陀はこう言います。
見の獲得(ditthi-patilabha)に従う者に、もろもろの不善法が減退し、もろもろの善法が増大するならば、そのような見の獲得(ditthi-patilabha)には従うべきです。
(従不従経)
仏陀の説くことは一貫しています。
不善法がなくなり善法が増大することを積極的に説いているのです。
不善法がなくなり善法が増大する見解(ditthi)は持つべきなのです。
例えば、『善行・悪行の業の果報はある』とか『この世はある。あの世はある。』という見解が、不善法が減退し善法が増大する、と説いています。
正見解(samma-ditthi)を持つことは、仏陀の法の根幹です。
これを何でもかんでも、有無の両極端を離れて中道にするのだから見解があるのもおかしいとかいう結論にしてしまうのは、後世の仏教理論を無理やり当てはめたものです。
中道とは、八正道のことです。
これは、仏陀がはっきりと言っています。
そして、八正道の根本は、正見=正見解=samma-ditthi です。
正見解は持たなければいけないのです。
中道だから見解を持たないというのは、仏陀の法ではありません。