マニカナでの春間さんの投稿に驚きました。
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> 龍樹がいなくても釈迦は釈迦。
龍樹がいなければ、 龍樹以降の 釈迦はいない
> 龍樹がいなくても仏典は仏典。
龍樹以降の 仏典はない
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何ですか、これは?
『龍樹以降の釈迦』??
何を馬鹿なことを言っているんでしょう。
龍樹の500年前に釈尊は入滅しています。
しかし、ここに春間さんの本音が出ていますね。
春間さんが、『釈迦』というとき、龍樹仏教に脚色された『釈迦』を指すのです。
歴史上に存在し、多くの人を涅槃に導いた釈尊には何の関心もないのです。
ですから春間さんはよく『歴史上の仏陀などいません』と言っています。
あくまでも龍樹仏教の中の『釈迦』にしか興味がないのです。
ですから、原始仏典についての尊敬がなく、勝手に自分で『釈迦』の言葉を捏造して平気なのです。
春間さんはよく
『縁起を見るものは私を見る』という言葉をでっち上げて使っていました。
釈尊は、『法を見るものは私を見る』とは言いました。
また、『縁起を見るものは法を見る』とも言いました。
しかし、『縁起を見るものは私を見る』などとは言っていません。
釈尊の言葉を捏造するのは仏教徒ではありえないことです。
他にも『受想行識が一切です』と断言し、『仏典にあるから探しなさい』と言っていました。
仏典にあるわけないです。
このように原始仏典、仏陀の直説に対しての尊敬の念が全くない。
石飛先生は、芳和さんに対しては『仏典への尊敬がない』と注意していましたが、春間さんのこのような捏造には何も言いません。ダブルスタンダードです。
龍樹がいなければ龍樹以降の仏典がないなどというのもあり得ません。
大乗仏典は、紀元初頭から同時多発的にあちこちで作られていったのです。
龍樹がいてもいなくても大乗仏典は作られていきました。
石飛先生は芳和さんに『正しいことを言っているのなら、なぜ賛同者がひとりもいないのか考えたことはありますか?』と問いかけていましたが、同じ問いかけを春間さんにもするべきだと思います。
ショーシャンクさん、石飛先生への疑念をマジカナ道場で言ってください。胸に秘めたまま投稿するのは、同じダブルスタンダードになるのでは。
ショーシャンクさん、石飛先生に疑念を持っているのですね。マジカナ道場ではっきりとおっしゃってください。
遠佐さん、私ははっきりと言っていますよ。すでに、何度も何度も。
私は、春間さんと芳和さんは同じような投稿姿勢だと思っています。
ですから、上記の文章にあるように、芳和さんに対するのと春間さんに対する態度が違うのは、ダブルスタンダードだと指摘したのです。
それについても、石飛先生にも直接言っています。
その答えは、先生は、春間さんの自我の部分は気づいていながらその底に禅の悟りのようなものがあると認めておられているということでした。ですから、そのとき、私は『それは先生の思い込みの可能性はありますが、そうおっしゃるのであれば、春間さんが何を得ているのか見ていきたいと思います』と書きました。
その後、春間さんが、『どんな行為も仏教の布施だ』ということを書いていたので、私は『それは仏教ではないし、石飛先生は春間さんは何かを得ていると思っているけど、それはただの勘違いだとわかった』と書きました。
このように、私は、自分の疑念はすべて、はっきりと書いてますけど?
また、今は、マニカナには投稿していませんし、これからもしないでしょう。
私はマニカナで、自分が自費出版することなど一度も書いたことはありませんでした。
しかし、マニカナの人が、わざわざ私のブログに書いたことを抜き出してきて、自費出版をすることなどを取り上げていました。また、その自費出版をマニカナで宣伝しているようなことを書かれたので、もう二度と書くことは止めようと思ったのです。
いまは、もう、自費出版の原稿を書くだけに集中したいですし、もし、自費出版が出版されたとしても、自分のこのブログでも宣伝するつもりはありません。
ましてや、マニカナという他人のホームページで宣伝するなんて考えてもいません。それを宣伝に利用しているなどと言われたら書き込む気力はなくなります。
文献学を目の敵にしている人たちがいるのも、遠ざかりたい理由です。
文献学の進歩により、史実が明瞭になりつつあります。
史実に目を向けるのを拒否していては真実には到達できません。
私は、マニカナに最初に投稿したときから言っていますが、あのような良質な仏教のホームページが盛り上がってほしいと言う気持ちがあります。
そして少しなりとも盛り上がったと思いますよ。それで満足です。