部屋の真ん中に

部屋の真ん中に腐った食べ物が置いてあります。

そこから臭いが絶えず発生しています。

 

その臭いに気づいた都度、『無~。無~。』と言ってなくしていこう、とらわれないようにしようとする人がいます。

 

その臭いをただ観察して、とらわれないようする人がいます。

 

『私はいつもその臭いに気づいている』とふれ回る人がいます。

 

臭いに気づく都度、うちわでその臭いを払う人がいます。

 

さて、これらのやり方は正しいでしょうか。

 

ある人がいて、その腐った食べ物を捨てて、その代わりに花を置きました。腐った臭いはなくなり花のいい香りがします。

 

これは喩えです。

思考を臭い、香り、に喩えています。

臭いや香りは物から出てきます。臭いや香りの元があるのです。

 

今までのやり方であれば、人は何一つ変わらない。

禅でもクリシュナムルティでもマインドフルネスでもノンデュアリティでも何も変わらない。思考をなくそうとしたり、思考に気づくとか思考を観察することでは何の役にも立ちません。

臭いにいくら気づいても、臭いをがむしゃらに払おうとしても、永遠になくなりません。無駄な努力です。

 

クリシュナムルティの『ただ観察すること』で解決するでしょうか。クリシュナムルティはその晩年、『誰一人変わらなかった』と嘆いたと言います。

 

それは臭いの元を消滅させる方法がないからです。

臭いをいくら観察しても何にもならない。

腐ったものを取り除き、代わりに花を置くだけで、その部屋は地獄から天国に代わるでしょう。香りはものにはかならずつきものです。

 

思考をなくそうとする努力ほど壮絶な無駄はありません。思考は創造エネルギーであり、非常に貴重な物です。その貴重なエネルギーの使い方がわからない、特に思考をなくそうと努力すればするほど現実社会から遊離していき、その人の現実生活はうまくいかなくなります。経済的にも困窮していくことになるでしょう。

それは、創造のエネルギーである思考をおろそかにしたために創造する力がなくなったためです。

黒く汚い液体だからといって原油を捨てているようなものです。それは原油の持つエネルギー、原油の持つ大きな価値を知らないからです。

 

私は、今までの仏教の解釈をすべて白紙にして、ゼロから仏陀の言葉を探求してきました。その結果、仏陀は本当に言おうとしたことは、それらの解釈とは全く違うものでした。

仏教が間違っっていったのは最近ではありません。

おそらく、仏陀の死後直後から、仏陀の真意から大きく逸れたと考えています。灰身滅智の方向へと突き進みました。

どんどん逸れていったため、『こんなものは仏陀の教えではない。仏陀の真意ではない。』と叫んで生まれたのが大乗仏典の数々だったと思います。つまり、大乗仏教を仏陀の真意の復興運動でした。しかし、その大乗仏教も大きく逸れていきます。禅や浄土教はやはり灰身滅智の方向に流されていっています。

ですから、部派仏教にしろ、大乗仏教にしろ、仏陀の真意とはかけ離れていると思っています。

 

話を戻しますと、部屋の真ん中に置いてある腐った食べ物とは、自我という中心です。記憶の束と言ってもいい。私たちが『私』と呼んでいるものです。

それは身体、肉体のことでもあるでしょうし、五官の経験の記憶の束でもあるでしょうし、スピリチュアルにはまっている人なら『私の霊魂』『私の前世』などというものを指しているかもしれません。『私の霊魂』も『私の前世』もすべて迷妄です。中心を形成するものすべてmoha です。それらの観念の束そのものが『私』と呼んでいるものです。

 

私たちはそのような『中心』を持っているために、本来の『無量』を見失っています。無量には中心がなく、中心が出来ると『限定』になるからです。

 

そして、『気をつけている』『気づいている』だけでは中心はそのままです。

先の喩えのように、部屋の中には腐った食べ物が置いたままです。

その中心の成り立ちを洞察していくことこそ、仏陀が説いた法でした。

 

仏陀が説いた法は人類の至宝です。

これから、とんでもなく大変なとき、いわゆる艱難の時代が来ます。

仏陀が説いたのは、kamma(身口意の行為=想い・想いに基づく言葉・想いに基づく身体的な行為)こそ人生・環境・あらわれてくる現象を創造するものだということです。

自らの想いによってのみ人はバラモンになれるのだと言いました。

 

人間には主体がない、とか、人間には自由意思がないとか、業に支配されている存在だ、運命に翻弄されている存在だ、因果に隷属させられているとか、そのような人間を無力に虚無に導く者の言うことからは決然と離れるべきです。近寄ってはいけない。

虚無思想こそ歴史上の仏陀の教えと正反対の暗黒思想です。

今の仏教やノンデュアリティはほとんど虚無思想、暗黒思想になっています。

そんなものに嵌まるのであれば、宗教やスピリチュアルなどというふわふわした妄想から全く離れて、お金を稼ぐことに邁進した方がよほど精神は向上します。

 

自由意志、主体性へと進む道は正しく、人間から主体性を失わせる道は間違っています。

なぜなら、人間は創造の主体であるから。

 

艱難の時代が間近に迫った今こそ、仏陀の真意に還るべきだと思います。