人間の真実

これは、ヤフー掲示板が終了する間際(2018年12月末)のヤフー掲示板での投稿です。

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hanaさん、こんにちは。
覚えていますよ。
このスレッドが荒らされていたときに、ご自分のスレッドも心無い人に荒らされて嫌な思いをされたと言われた方ですね。

 

<<私は宗教が苦手で嫌悪しているところがあります。>>

 

それは正しい感覚だと思います。
このスレッドのアラシを見ても分かりますが、自分の信じる宗教が強固な自我を形成している人が多く、仏教に限らず宗教はお薦めはしません。

私はもうこのスレッドには書き込まないと思っていましたが、hanaさんのような真摯な質問にはできる限りレスさせていただきます。

今夜書き込めるかどうかわかりませんが、明日以降でも、書き込みしたいと思います。

このような真摯な書き込みがもっと前にあれば、このスレッドももっといろいろなことが話せたのにと残念です。

まとまった時間ができたときに書き込みさせていただきます。
ご投稿、ありがとうございました。

 

 

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hanaさん、おはようございます。

根本的な問題なので、何度かに分けて少しずつ投稿しますね。
その都度のレスはされなくて構いません。
かなり複雑な問題ですから、掲示板が終了するあと10日あまりで書けるかどうかはわかりませんが。


<<世の中には理不尽な出来事は沢山ありますよね。>>

 

これは本当にそうです。
世の中に理不尽なことは溢れています。
何の罪もない幼子が両親に虐待されて亡くなっています。
若くて美しく希望に溢れた女性が、ほとんど接点もない男に勝手に好意を持たれ、ストーカーされ殺される事件も後を絶ちません。
大災害で亡くなったり、飛行機や列車などの大規模事故で亡くなった方たちはどう見ても善人な人たちです。
そうかとおもうと、他人に迷惑をかけることも平気で、図々しく、声が大きなものが、この世の中ではのさばっています。

私もこの問題は考え続けてきました。
どの宗教も哲学もこの問題に満足のいく答えを持っていません。

例えば、仏教なら、こう言う人がいるでしょう。
今世だけ見れば理不尽だけど、人間にも前世も来世もあって、前世の悪業を今世で受け取っているのだ・・・と。

しかし、そうであれば、今世で何の罪もないのに殺された人は、前世でそのような結果に相応しいとんでもない悪行をし続けてきたことになります。
極悪人ですね。
しかし、そのような人が、今世では美しく親思いで周囲にも慕われ希望に溢れた人になっているというのです。
おかしな話です。

まずは、この世は理不尽さが溢れていること、そして、それをどの宗教もちゃんと説明できてないことは私ははっきりとそう思います。

また、時間がある時に、続きます。


それから、このレスは、hanaさんの投稿に対してのものですから、他の人が横から質問しても答えることはしません。ですから、横から割り込んでの質問や投稿はやめてくださいね。

 

 

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続けます。

もちろん、大事件や大事故などだけではなく、
わたしたちの日常生活でも理不尽極まりないことが毎日のように起こります。

善意のみから為したことを逆に捉えられて恨まれたり
その人の悪口ばかり陰で言っていた人が表向きのお世辞だけで評価されたり
どのようなわるいこともしてないのに濡れ衣を着せられたり
理不尽なことは数多いですね。

優しく正直でおとなしい善人が損をすることもあまりにも多いことですね。
口汚く図々しい者が評価されたり得をすることもよくある話です。

善因善果、悪因悪果、などというものは全く当てはまりませんね。

 

 

 

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しかし、『ダンマパダ』の最初は
『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。』という文章です。

善なる者がこの世では多くの損をし
悪なるものがのうのうと生きています。
さて、これをどう解釈するか、です。

 

 


誰かもし、このスレッドに書き込みたいのであれば
hanaさんの問いに自分なりの答えを書き込めばどうですか?

mic(ミチオ)、最後の最後まで嫌がらせ投稿をしてないで
もし仏教がわかっているというのであれば、
どこも悪くない幼子や少女が殺されなければならないのか、
善なるものが悲惨な目に遭うことが多いこの世で、本当に善因善果と言えるのか
正面から答えたらどうですか?
理不尽極まりない現実に、答えることができてから、このスレに投稿しなさい。

 

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注;上に出てくるmic(ミチオ)というのは、最近では、マニカナにさかんに投稿しているアラシです。

浄土真宗のお寺の息子らしく、ヤフー掲示板の時は、私は親鸞に否定的であったため、私が投稿したら必ずすぐ30も40も罵詈雑言の連続投稿していました。ヤフー掲示板では、30も40も連続投稿されるとそれに埋もれて私の投稿が見えなくなります。そうやって、妨害し、私のスレッドを潰そうとしていました。『ここは早いうちに潰さないとカルトになる』というようなことを幾度となく投稿していましたから、明らかにスレッドを潰そうとして嫌がらせをしていたわけです。

マニカナは親鸞に好意的なのでミチオも罵詈雑言の投稿はしていませんが、それでも、大量の連続投稿をし続けるので、マニカナが見づらくなり嘆いている閲覧者さんもあるように思います。何より、mic(ミチオ)と和弘(芳和)さんの投稿ばかりで埋め尽くされていますので、真摯に話し合う場の雰囲気が壊れてしまっています。

 

 

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hanaさん
おはようございます。

最初に書いておかなければいけないのですが
私は、仏陀(ゴータマ・シッダッタ)を仏教の開祖として見ていません。
いわゆる仏教は、仏陀が説いたものとはかけ離れてしまったと考えています。
仏教は後世のものが様々に作り上げていったもので埋め尽くされています。
ですから、仏教なるものをお知りになりたいのであれば、私は一番不適格です。
仏陀は仏教などという独自なものを開こうとは思ってもなかったのです。
仏教教団を主宰しているという感覚もありませんでした。

また、私には、偉人バイアスも有名人バイアスも一切ありません。
どのような歴史上の有名人であっても、そしてその人が高い悟りに達した人だと誰からも思われていても関係なく、その人の言葉や行動から判断しようとします。
ですから、宗祖や歴史上の有名人も辛らつに書くことも多いです。

しかし、仏陀は、あの膨大な資料の中で、そしてその長い人生で、怒った場面というのがたった1回しかありません。
いつも平静でした。
悟ったときから入滅するまで一貫してます。
これは凄いことだと思います。


私が、いわゆる仏教(特にウキペディアに書かれている仏教)とは、全く違う捉え方をしていることは最初におことわりしておきます。
伝統的な仏教の教理をお知りになりたいのであれば、他の方に聞かれたほうがいいと思うからです。

 

 

 

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私が人生で影響を受けた、または衝撃を受けた言葉はいろいろありますが
その中で最も衝撃だった言葉が2つあります。

どちらも学生の時に読んだ本の中にあったのですが、
その中の1つは確かヒッピー全盛期のアメリカで精神放浪した人の回想のような文章でした。
ある講演会にふらりと立ち寄ったところ、その講師の人が『すべては自分の想いでできている』という主旨の講演をしていたのです。
折しもベトナム戦争の時代だったようで、その講師は
『ベトナムの赤ん坊は、自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作ったのだ』と言ったらしいです。
当然、その講演会場はハチの巣を突いたような大騒ぎになり、非難や罵倒の激しい言葉が飛び交ったと言います。
しかし、その講師は平然と講演を続け、驚くことに静かになり、最後にはその講師への称賛で終わったらしいです。
その講演の内容は書かれていなかったのですが
『ベトナムの赤ん坊は、自らに降り注ぐナパーム弾を自分が作ったのだ』という言葉は私にはとにかく衝撃で、意味も全くチンプンカンプンでした。

『すべては自分の想いでできている』としても、純粋無垢な赤ん坊の想いがなぜ?とどうしても理解できませんでした。

伝統的な仏教でも、唯心所現、唯識所変と言います。

私はずっと、その言葉を公案として生きてきた気がします。

 

 

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仏陀は中心のない空間から語っているのです。
ですから誰にも理解されないのです。
私たちは、まず『私』という中心から見たり語ったりしています。
その中心から離れることはありません。

中心などない・・というメッセージ・・・これを漢語に訳して「無我」とか「非我」とか言っているのです。
多くは「無我」と訳したために、アートマンという実体があるとかないとか、そういう不毛な論議ばかりするようになりました。龍樹などによって仏にも如来にも実体がないとまでされるようになってしまいました。
仏陀は、実体があるかどうかは無記として論議することを禁じたのにかかわらず、です。


さて、仏陀が発見した十二縁起は、私たちが中心を持ってしまい、苦の集積へと押し流されている過程です。
中心を持ってしまったために欠乏感が起き、その欠乏感という想いが現象に欠乏という姿を現していてますます欠乏感を生じ、その想いがまた欠乏を生じさせているのです。

この想念の流れを激流と呼びます。

つまり、私たちは一人残らず、苦の集積に向かって押し流されているのです。

 

 

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<<私は宗教は共感者が集まって教団化される内に
その本質から離れていってしまうように思ったんです。>>

 

その通りです。
どのような集団、団体でもそうですが、その集団の他集団に対する優越感を持ち自我を満足させたいために、いろいろなことをします。
自分のお師匠さんが他より極めて凄いことを強調したり、ひどいときには神格化したりします。
教義も独自性を強調し、他との共通性を排除していきます。
仏教教団に起こったこともまさしくそういうことです。

それによって、仏陀の真意は失われていきました。

 

 

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肉体を持ち、感覚を持ったために
わたしたちは無量からの分離感、限定感、欠乏感を持ってしまってます。
さらに、成長していくうえで、様々な人たちと交流していくにしたがい
他者(自分以外のものという意味で親も含む)の評価や言葉をかき集めていき
自我観念、自己イメージを作り上げていきます。
その自己イメージがますます分離感、限定感、欠乏感を強めていきます。

自己イメージは、他者に褒められればいい気分になり、貶されれば攻撃的になり
人生の経験を経ていくうちにどんどん強まっていきます。

他者が喜ぶことをすれば褒められ、他者の意に沿わないことをすれば怒られるので
人間はひたすら他者の気に入るように行動しようとし始めます。
自我は他者の注目から成り立っていますから、褒められることに絶望的な者は社会への攻撃という形で他者の注目を集めようとします。
どちらにせよ、自我の働きです。

自我と主体性を混同している人が非常に多いですが
自我=自己イメージは、他者の目から成り立っていて、主体的ではありません。

 

 

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例を挙げると
欠乏感が大きな人は、他者からの評価を上げたいために自慢をします。
自慢は他者に認めてもらいたい一心の行動です。
しかし、どんな人も自慢ばかりする人を嫌います。
自慢ばかりする人はますます周囲から孤立化していきます。
さらに、分離感、限定感、欠乏感、孤立感が増大していきます。

わたしたちは、日常、このようにして、孤立への道へ押し流されているのです。


誰も、本当の主体性を持たないために、他者の目を怖れビクビクしながら生きているのです。

想いが現象のすべてをつくります。
ゆえに、欠乏感、分離感に押し流されている現状では、すべての人は苦の集積に向かっているのです。
欠乏感が現象に現れてきます。

決然として、苦の連鎖を断ち切り、真に主体的になることが仏陀の本当のメッセージだと考えています。

 

 

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精神が無量であることがすべてです。
しかし、わたしたちは、中心を持っているために、
分離感、欠乏感にまみれて生きており、日々の経験の中でその分離感、欠乏感は増大しているのです。
無量なるものが少しでも感じ取れれば、仏陀が言った『苦』の本当の意味がわかります。
『矢』の本当の意味も分かります。


同調圧力も激流です。
人はみな自らの『いい気分であること』よりも、他者によく見られたいほうを選択します。
この選択をし続けることによって、『世間様』は圧倒的な存在となり、自らの無力感が心に蔓延っていきます。

毎瞬毎瞬、人は、限定感の方向か、無限感の方向か、を選択しています。
しかし、限定感への激流に押し流されていますから、そのままでは限定感への方向を変えることはできません。
ゆえに、少しでも無限の方向を感じられるものに焦点を合わせる必要があります。
それはどんなことでもいいのですが、特に音楽は思考をはさまず直接精神に訴えかけますから最高です。ただし、無限を感じられる音楽に限りますが。
映画でも本でもそれはいいのです。
ですから、私は、人生の一冊の本、人生の一作の映画、人生の一曲の音楽を持っている人は幸せで持ってない人はどんなに富を築いても精神的には意味がないと思っているのです。

 

 

 

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hanaさんの一番最初の質問に戻ります。

<<自分にとって理不尽で不条理に思える事象も、
全ては自分が原因しているということなのでしょうか?>>

 

私はそう思っています。
これは道徳上の善悪とか、善因善果とか、そのようなこととは違います。
道徳というものは人間の頭が作り出したことで、道徳上の善悪で宇宙の法則を説明することはできません。
善とか悪とかではなく、人はすべて自分が出した想いや気分を受け取っているのです。
私の中では徹底していて、自らに起こることはすべて自分の意識が作り出したものだと確信してます。
どうしても晴れてほしい日に雨が降りかかる状況も、健康状態も、人間関係も、交通渋滞に巻き込まれるのも、自分の保有株が下落するのも、どのような環境であれ、自分に起きてくることはすべて自分の心が作り出したものだと思っています。

ゆえに仏陀は『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。』と言ったのです。


わたしたちは、無量であることを忘れてしまって、欠乏感の激流に押し流されているので
欠乏感そのままの状況が作り出されているのです。
善人悪人関係なく欠乏感を抱えています。善因善果というものではなく、どんなに人のいい善人でも、自らの欠乏感分離感に従って環境が作り出されます。
むしろ、他人の目、他人の顔色ばかり考えている善人は、無力感を抱き鬱になる人も多いのです。


hanaさん、何か質問があればしてください。
hanaさんのご質問の答えになったかどうかはわかりませんが、私が勝手に思っていることを述べました。
それが正しいか間違っているかはわかりません。
私の中では確信があるということです。


何度も言いますが、これはhanaさんの質問に答えたものですので、横から質問されても、答える気はありません。
もともとこのスレッドにはもう書き込まないつもりでしたから。

 

 

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<<どこかに属する、属したいという思いはありません>>

 

それは最も大切なことです。どこかに属したり、誰かに従属した精神は、どんよりとしてしまいます。人はただひとりあらねばならない、のです。私も、誰かに属したりすることはこれからもなく、賛同者なども一切不要です。

 

<<そして自身が主体的に生きていないために起こる苦しさを
他人の圧力によるものだと他人へ責任を転嫁して
自己を憐れんでいたようにも思います。>>

 


人間にとって自我にとって自己イメージにとって「他人にいい人に見られたい」という欲求が如何に大きなものか、です。
怖ろしいことに、生命の存続、つまり生存欲求より大きくなることがあるくらいです。
いい人に見られたい欲求と自分のいい気分が共存すればその行動をとるべきですが
人間はしばしば、あるいはいつも、自分のいい気分を犠牲にして他人にいい人に見られる方を選択してしまいます。
しかし、いきなり他人の期待を裏切ってばかりだと極端すぎますから
まずは、自分のそのような心の動きに気がつくことです。
自分以外の「世間様」の目をいかに怖れているか、です。
この怖れに囚われたとき、世間というものはその人にとってとんでもなく大きな圧力、壁に思えます。
ところが人間洞察が進んでくると、すべての人間が自分と同じように怖れているのだとわかってきます。
そのとき「世間」というものが強固な壁に見えていたのは幻想だと悟ります。

 

 

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<<この十二縁起の1番目の無明には、始まりがあったのですか?
輪廻には最初があるということなのでしょうか?>>
<<>『すべては自分の想いでできている』としても、純粋無垢な赤ん坊の想いがなぜ?とどうしても理解できませんでした。
こちらの答えはも、自分の意識からなのですか? 何も考えることも出来ない赤ちゃんもですか?>>

 

掲示板終了まであと1週間を切るくらい残り少なくなりました。その1週間のうちでもスレッドに書き込める時間はほんの少しです。
残されたわずかな時間では十二縁起と【ベトナムの赤ん坊は自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作った】という極めて怖ろしい言葉の本当の意味を説明することは難しいです。
私もかなりの年月をかけて取り組みましたので初めから説明するとかなり長くなります。

ただ、肉体を作ったのも(仏教では五蘊を仮合させたといいますが)想いというか想いの原型、潜在的形成力です。

また、十二縁起の無明と行を過去生の行ないとする解説はかなり多いですが、すでに決定された過去生では『滅する』ことができないので、私は過去生とは思っていません。


<<今回ショーシャンクさんから教えていただいたことで、
何故自分が苦しいのかの根源的な意味が分かったような気がしています。>>

 

それであれば、よかったです。
少しでも役に立てればうれしい限りです。


十二縁起など根源的な部分までは説明できませんでしたが
私の説明はこれで終わらせていただきます。