『火ヴァッチャ経』

中部経典『火ヴァッチャ経』にも、こうあります。

 

ヴァッチャ族の遍歴行者が釈尊に質問した。

『世界は永遠か、永遠でないか。』

『世界は有限か、無限か。』

『生命と身体は同一なのか、別なのか。』

『如来は死後存在するのか、存在しないのか。存在しながらしかも存在しないのか、存在するのでも存在しないでもないのか。』

 

これは、毒矢の喩えでの質問と同じです。つまり、自己や世界が実在するのか、しないのか。自己や世界に実体があるのか、自己や世界に実体はないのか、という質問です。

実体とは、『さまざまに変化してゆく物の根底にあって持続的だと考えるもの』だからです。

永遠に続くものがあるのであれば実体がある、ないのであれば実体がない、と考えられるからです。

 

釈尊はこのように答えます。

『「世界が永遠である」というのは見解に捕らわれることであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、煩悩の消滅、智慧、正しい悟り、涅槃に役立たない。』

『「世界が永遠でない」というのは見解に捕らわれることであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、煩悩の消滅、智慧、正しい悟り、涅槃に役立たない。』

 

以下、すべての質問につき、そのように答えます。

 

そして、こう言います。

 

『如来は、見解に捕らわれるということを脱却している。』

『如来は、五蘊(色受想行識)と五蘊の原因と五蘊の消滅を洞察する。そして、あらゆる妄想、顚倒、我見、我所見、慢を消滅し尽くして解脱した。』

 

ヴァッチャの、解脱した如来はどこに再生しますか?と言う質問に答えて

 

薪によって燃えている火は、薪が尽きたら消える。

その火はどこに行ったかと問うのは適切ではない。

それと同じように

色(受・想・行・識)が捨てられその根が断たれたとき、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。

そのとき人は色(受・想・行・識)から解脱したのである。

それは甚深無量にして底なき大海のごとくであって、赴きて生じるというも、赴きて生ぜずというのも当たらないであろう。

 

 

かなり省略して書きましたが、この経にはとても重要なことが書かれています。

それは薪が尽きて火が消滅したときのように

色(受・想・行・識)が尽きて消滅しても

甚深無量にして底なき大海のごとくである』ということです。

 

さて、ここでも、毒矢の喩えと同じように、自己や世界に実体があるとか実体がないとかという論議は苦の消滅、涅槃に至る道の役に立たず妨げになる、ということです。

 

 

しかし、後世には、龍樹と説一切有部の間で、法(ダルマ)に実体があるか実体がないかの論争に明け暮れるようになります。