このブログの『相応部経典』は、春秋社の『原始仏典Ⅱ』相応部経典1巻~6巻を1巻から順次重要な箇所をピックアップしていくつもりでしたが、なぜか2巻が見当たりません。山荘も探しましたがなかったので、とりあえず、2巻を飛ばして3巻からピックアップしていきます。
ちなみに、春秋社『原始仏典Ⅱ』相応部経典1巻~6巻の構成は
1巻 詩句をともなった集
2巻 因縁についての集
3巻 存在の構成要素についての集
4巻 六処篇
5巻6巻 大篇
となっています。
家の主人よ。あなたの身体は病んでおり、病におかされ、病にかかっている。
実にこのような身体を持ちながら、一瞬であれ病んでいないと公言するのは愚者以外の何ものであろうか。
それゆえ、このように学ぶべきである。
私の身体は病気であっても、私の心は病気でなくあろう、と。
家の主人よ、身体が病んでも、心が病まないとは、どういうことか。
優れた弟子たちは、聖者たちを見、聖者の教えを知り、聖者の教えに導かれる。
かれは、身体(色)を我であると見ず、我は身体を所有していると見ず、我の中に身体を見ず、身体の中に我を見ずして、「わたしは身体である、身体は私のものである」と執らわれない。
かれは、感受(受)を我であると見ず、我は感受を所有していると見ず、我の中に感受を見ず、感受の中に我を見ずして、「わたしは感受である、感受は私のものである」と執らわれない。
かれは、知覚(想)を我であると見ず、我は知覚を所有していると見ず、我の中に知覚を見ず、知覚の中に我を見ずして、「わたしは知覚である、知覚は私のものである」と執らわれない。
かれは、形成力(行)を我であると見ず、我は形成力を所有していると見ず、我の中に形成力を見ず、形成力の中に我を見ずして、「わたしは形成力である、形成力は私のものである」と執らわれない。
かれは、認識(識)を我であると見ず、我は認識を所有していると見ず、我の中に認識を見ず、認識の中に我を見ずして、「わたしは認識である、認識は私のものである」と執らわれない。
(ナクラの父)
『存在の構成要素についての集成』には非常に重要な教説が数多くあります。
次の文は仏陀の理法の根幹部分だと思います。
身体(色)は無常である。
何であれ、無常であるものは苦しみである。
何であれ、苦しみであるものは非我である(自己ではない)。
何であれ、非我であるものは
「これは私のものではない、私はこれではない、これは私の我(自己)ではない」と
このようにこれをありのままに正しい智慧によって見るべきである。
受(感受)・想(知覚)・行(形成力)・識(認識)は無常である。
何であれ、無常であるものは苦しみである。
何であれ、苦しみであるものは非我である(自己ではない)。
何であれ、非我であるものは
「これは私のものではない、私はこれではない、これは私の我(自己)ではない」と
このようにこれをありのままに正しい智慧によって見るべきである。
このように見て、教えを聞く優れた弟子は、色(身体)・受(感受)・想(知覚)・行(形成力)・識(認識)についても厭う。
厭うと染まらない。
染まらないので解脱する。
解脱すると解脱したと知る。
「生まれは尽きた。清らかな修行は完成した。なされるべきことはなされた。」「この状態のほかはない」と知るのである。
ここで、五蘊(色・受・想・行・識)につき、無常で、苦で、非我であると正しい智慧で見るべきといっています。
そうすれば、自己同化が破れ、自己限定が破れ、解脱する、ということです。
これが、四念処の原理です。
四念処は、身・受・心・法について無常・苦・非我を徹底的に観ずることです。
そして、解脱の完成こそ、「この状態のほかはない」ということなのです。
身体は無常である。
作られたものである。
縁って起こったものである。
滅尽する性質のものである。
衰滅する性質のものである。消失する性質のものである。
消滅する性質のものである。
それが消滅する消滅するといわれる。
これは、アーナンダの「消滅、消滅と言われますが、どのようなものが消滅すると消滅と言われるのですか?」という質問に対する仏陀の答えです。
欲望への渇愛、生存への渇愛、虚無への渇愛である。
修行者たちよ、これが痛みの根源といわれる。
(痛みの根源)
欲愛、有愛、無有愛 が痛みの根源だと言っています。
この本の訳では、欲愛が欲望への渇愛、有愛が生存への渇愛、無有愛が虚無への渇愛、としていますが、
私は
欲愛=欲界の渇愛 つまり、食欲、性欲などの肉体的な欲望
有愛=色界の渇愛 つまり、形あるものへの所有欲
無有愛=無色界の渇愛 つまり、形のないものへの欲=名誉欲、承認欲求
だと考えています。
無有愛を虚無への渇愛とするのはどうしてもおかしいと思うからです。
修行者たちよ、壊れるものと壊れないものについて話そう。
身体(色)は壊れるものである。
その消滅、寂滅、滅が壊れないものである。
受・想・行・識は壊れるものである。
その消滅、寂滅、滅が壊れないものである。
(壊れるもの)