言語寂滅と言うのであれば

マニカナでの芳和さんや春間さんの投稿見ていて不思議に思うのは

『龍樹の「戯論(言語)寂滅」』ということをさかんに強調しているのに、結局、言葉に付いて回って、ただの言葉遊びのようにしか見えないことです。

相対とか絶対とか、実体があるとかないとか、仏教に上下があるとかないとか、そんなことばかり頭の中でぐるぐるさせていて、それがその人たちの精神に何をもたらしたのか、それがとても疑問です。

『詩や文学、音楽に親しみイメージ脳を使ってみることだろう。』と自分で書いているのだから、仏教解説書などを言葉でぐるぐるさせるのではなく、言語を絶した音楽に参入すべきだと思います。

 

歌詞のない音楽は、言葉で把握することができず、魂に直接響いてくるのだから、仏教書など何百冊読むより人類の至宝である音楽に親しんだ方がいいでしょう。

 

わたしは、クラシック音楽、大乗仏典、禅の公案、この3つは、自分のそのときの意識の広がりを測るバローメーターでもあると思っています。

 

実際に、意識が広がったときに、はじめて、クラシック音楽の大部分が心の底からわかるようになりましたし、その後も、たとえば、どうしてもわからなかったマーラーの第9交響曲が本当にわかってきたりして、そのときのうれしさは格別です。

大乗仏典も禅の公案も解説書などは一切読まずに直接向き合って、それまでどうしてもわからなかったものがわかったら、それはうれしいものです。

解説書を読んでわかるのは、頭だけの理解です。

 

もちろん、クラシック音楽をいくら聴いたからといって悟ることは出来ません。

大乗仏典や禅の公案をいくら読んでも悟ることはできません。

 

しかし、意識が広がったかどうかは、その理解度によってかなり正確に測れるような気がしています。

 

もし、「戯論(言語)寂滅」と叫んでいる人が、バッハもモーツァルトもマーラーも聴いてわからないのであれば、それはちっとも言語を絶していません。

本などで言語や理論を弄ぶのではなく、言語を介さない音楽に参入するべきです。

 

芳和さんと春間さんに、『この3年間に最も数多く聴いた音楽ベスト10』『今までの人生で最も数多く繰り返して観た映画ベスト10』を聞いてみたいです。

 

よくある質問の『最も好きな映画』とか『最も好きな音楽』という質問では、本音が出ません。

自分が観た中で最も『他人に言ってかっこよい映画』『恥ずかしくない音楽』という基準で、一回しか観てない映画やこの1年ほとんど聴いてない音楽を引っ張り出して来るからです(笑)