無量を感じること

高原 (126.42.33.248)    

ショーシャンクさん、こんにちは。 お勧めにあった阿含経全三刊を買ってきました。今までは阿含経はネットで見ることができたんですが、ネットは部分的にしか読めなかったので、これだけの分厚い阿含経を読めるのはとても楽しみです。少しずつ読んでいますが、易しく教えを説いてくれるとても良い経だと思す。ゆっくり読みます。 最初の方から十二縁起が説かれていて、実際に仏陀から直に話を聞いているような感覚になって、そこで思ったことは、たぶん、他にも、ぼくと同じ疑問を持った人はいると思うのですが、これはなかなか言えない失礼を承知で質問しますが、 「では、受(感覚)とは何であろうか。それには6つの感覚がある。目の接触によりて生ずる感覚、耳の接触によりて生ずる感覚、鼻の接触によりて生ずる感覚、舌の接触によりて生ずる感覚、身の接触によりて生ずる感覚、ならびに意の接触によりて生ずる感覚がそれである。比丘たちよ、これを受というのである」とある「耳の接触によりて生ずる感覚」の中に、クラシック音楽は入らないのでしょうか?

 

 

 

高原さん、こんにちは。

耳で聴くクラシック音楽も、直弟子が聞いた仏陀の声も、感覚すなわち受の働きによって認識されます。受です。

 

十二縁起とは、仏陀が、苦の縁って起こる原因を洞察したものです。

無量の大海であった私たちの精神が、中心を持ち限定され苦の集積へと押し流されていく過程を洞察するものです。

六入という感覚器官が形成され(六入)、その感覚器官が対象物に触れ(触)、五官の感覚の経験が生じます(受)。

受には苦受と楽受があります。苦でも楽でもないものもあります。

苦受とは苦痛。楽受とは快感です。

人間は、苦受を嫌悪し排斥します。楽受を愛着し長く味わうことを望みます(愛)

好悪のフィルターが生じたのです。

 

四念処観にも受は出てきます。

四念処観とは、身・受・心・法の4つを無常であり苦であり私ではないと観察することです。

 

私たちの精神が、無量でなく、卑小であり続けているのは、中心を持ったからです。

中心によって限定され、無量を感じられなくなったのです。

欠乏感が強く生じてしまったのです。

 

十二縁起の瞑想や四念処の瞑想は、その中心を洞察してdeleteしていって無量へと到達するためのものです。

 

それでは、クラシック音楽はどうでしょうか。あるいは、大乗仏典のような芸術作品はどうでしょうか。

これらは、無量を感じ取った人たちが創作したものです。

 

クラシック音楽をどんなに聴いても、中心を消滅して無量に達することなどできません。

大乗仏典もそうです。禅の公案もそうです。

それはただ、受の経験、感覚の経験の一つになって、自我を構成し強めるだけです。

 

 

ところが、例えば、十二縁起の瞑想などによって中心を離れ無量を感じることができるようになれば、魂の底から、クラシック音楽や大乗仏典や禅の公案がわかるようになるでしょう。それらに無限を感じることができるようになります。

 

逆はあり得ません。

クラシック音楽をよく聴く人が悟りに至るわけではありません。メロディなど何度も聴いていれば頭で慣れてきて『ああ、きれいなメロディでいいんじゃない?』という感じには誰でもなります。

だからクラシックを聴くからと言って悟りに近いわけでは全くなく、

しかし、本当に無量に到達した人なら例外なくクラシック音楽に奥に流れる無量を心底感じ取ることができるでしょう。悟ったと自称している人で、クラシック音楽も理解できないのであれば、それはニセモノです。