『私』が矢

高原 (126.66.155.7)    

ショーシャンクさん、こんにちわ。
 
「矢」について質問があります。
矢が刺されば、人は痛いので苦しみ、その矢を抜いて苦しみから救われようとします。
おそらく、一人の例外もなく矢は誰にでも突き刺さっているんだと思いますが、ぼくが見ている限りでは、誰もが矢の痛みに悲鳴を上げている訳ではなく、ほとんど痛みを感じていない人も、痛みを感じているものの抜く方が痛いのでそのままで支障がなく生活している人もいます。
矢が刺さって痛くて堪らない人なら、その人は矢を何とか抜こうと必死になるでしょうが、矢の痛みを感じていない人なら、どうでしょうか?
抜く必要があるでしょうか?
ショーシャンクさんなら、どうお考えでしょうか?

 

 

高原さん、こんばんは。

『矢』に関しては、非常に重要なことをまずは自費出版にはじめて書こうと思っていましたが、いろいろ新しい発見があって原稿にとりかかれず自費出版もいつになるかわからないので、ここで少し書きます。

 

私に矢が刺さっているのではないのです。

『私』が矢なのです。

 

これだけで、ごく少数の人はわかるでしょう。

 

私がこのことに思いついてから、かなり仏陀を近くに感じるようになりました。

この言葉については質問しないでください。

いずれまた説明する時が来ると思います。

わかる人にはわかるということで。

 

これは置いといて、すべての人は矢が刺さっています。

毒矢です。

毒は三毒です。貪瞋痴です。

その毒は全身に回ってその人を害します。

 

しかし、自分に矢が刺さってるなんて気が付いている人なんてほとんどいません。

人類は、仏陀が言った『苦』=dukkha を理解できなかったのと同じです。

 

仏陀は、dukkhaが分かった人のために、そして『矢』が分かった人のために、毒矢を抜く方法を教えてくれました。それが仏陀の残した理法です。

そして、dukkhaや『矢』がわからず、しかし、より幸せな人生を送りたい大多数の人に、毒矢の毒を少なくする方法を教えました。

悪いことを思わず、善い思いを出すこと、です。仏法僧を念じたり、です。

あるいは善行です。供養したり、布施をしたりです。

 

矢を抜くというのは非常に大変です。

矢から出る毒を少なくしていく方が簡単です。

しかし、いつか(今世でなくとも)矢は抜かないと、苦=dukkha からは免れません。

 

苦しくなんかない、この世は楽しくて仕方ない、といま思っている人はいるかもしれません。楽しければ楽しいほど、その快楽の対象がなくなったとき、それよりも自分自身が死ぬとき、その衝撃は大きいでしょう。そしてその時にはもう遅いのです。

 

ですから、矢の痛みは感じている人の方が私はいいと思います。

仏教に出会えますから。

仏陀は、若い時から『苦』をひしひしと感じ取っていた人でした。

 

矢の痛みを感じていない人は、そもそも矢の存在、毒の存在がわからないのですから、抜こうなどという気も起きないのです。そのままでいるしかないでしょう。

痛みも苦も感じていない人に、『矢が刺さってるから抜いたほうがいいですよ』と言っても『こいつ、何言ってるんだ?頭おかしいんじゃないのか?』と思われるだけです。言うだけ無駄です。