自由意思が因

たーぼー (126.199.36.22)  

>人生の時間は限られていますので、feel bad な人と不毛なやりとりをしているうちに>タイムアウトになってしまいます。
ショーシャンクさんこんばんは。 全くその通りですね。 つい、因果だけあって自由意思はないなんて言う事を自分一人だけで思っているならいいんですが、人に講義で教えていたりすると、ちょっと貴方責任持てるのかと言いに行きたくなってしまいます。 自分一人だけならどんな信条でもいいんですよ。 こんな事、人に講義で教えていいのかと熱くなってしまいました。 まぁ八万四千の法門でしたっけ?色々あるなぁと思いました。
 
 
 
 
 
まず言っておけないといけないのは、歴史上の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が説いたことと、今の仏教と言われているもの(大乗仏教、上座部仏教、問わず)は、全く違うものだと言うことです。
 『縁起』も『空』も『因果』も、いま仏教と言われているものの意味とは全く違います。
 
 
 
 
『縁起』

仏陀の説いた縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。


これあればかれがあり、これが生じればかれが生じ
これがなければかれなく、これが滅すればかれが滅す

 

この四つの定理を使って、仏陀は、苦の原因を究明していきました。

 何故でしょうか。それは、その4つの定理に厳密に当てはまるものが見つかれば

それを滅することにより苦が滅すると考えたからです。

苦の消滅を目指して出家した仏陀は、
これあれば苦があり これが生じれば苦が生じ
これがなければ苦がなく これが滅すれば苦が滅す
というものを徹底的に洞察していったのです。
それが縁起です。

そして、その完成形が十二縁起です。

ゆえに、原始仏典に仏陀が説いている縁起の法は十二縁起を完成形とし五支縁起などの省略形はありながらもすべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

 

 

 

『空』

仏教の根本教理と見なされ最も重要視されている【空】ですが、
歴史上の仏陀はほとんど説いていません。

 最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。

いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。

 

さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。

それを解明するには、『ダンマパダ』の

【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。

 ほとんど同じことを説いているからです。

さらに【この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであるとさとったならば、死王の見られないところに行くであろう。】とあります。

仏陀は、泡沫やかげろうをはかないという例えで使っているのです。

つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、

【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。
非常に単純明快ですね。

仏陀が『空』と言う言葉を使うとき、それにはいかなる形而上学的な意味合いもなく観念的なものでもありませんでした。

『生じれば滅するはかないもの』と言う意味でしかありません。


『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。

しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。

 

 

 

『因果』『因縁』『業』『カルマ』

因縁、因果、業、カルマとか言う言葉ほど誤解されている言葉はないですね。

『すべては因縁因果で成り立っているのだから自由意志はない。』などということを仏教の真理だと考えている人もいるようです。

仏陀がそういうことを言ったことは一切ありません。

仏陀が言ったkamma(業・カルマ)とは、行為、行ないのことです。

行為、行ないと言っても、私たちが思う身体的な行為だけではなく、身口意の行為のことです。

つまり、心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。

 

仏陀は

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

と言いました。

身口意の行為をすることは自由意志です。

つまり、身口意の行為=カルマ をすることは自由意志なのです。

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

因縁因果によって成り立っているから自由意思がないなどと言ったことはなく、

仏陀は、kamma=身口意の行為 が 因 となりその 果 として ものごとが作り出されると言ったのです。

つまり、自由意思が因であり、ものごとや環境が果なのです。

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

 

 

昭和時代の物理学のように、すべては意志なしで物理的に確定しているというがんじがらめの考えから抜け出ない人もいるようですが、科学や物理学でさえもうどんどん、そのようなことは過去のものになっていっています。客観的な現実というものは、人間が観測するまでは存在しない、この世を構成する粒子は観測者の意志で変化する、とまでに現代の物理学は進化して行っています。最近この「現実は存在しない」ことについての論文を発表したグリフィス大学のジョーン・ヴァカロ教授は、「ひとりひとりが、その人だけの現実を持っている」としていて、そして、その現実は、観測により変化していくとしています。

 

 

もともとの仏陀の教えは、『無常であり苦であるものを、わたし、わたしのもの、わたしの本体と言っていいであろうか?』というもので、明らかに『諸法非我』なのですが、それが『わたしという本体はない、わたしという実体はない、わたしという主体はない』という『諸法無我』に捻じ曲げられていきました。そこには、自分たちの教えは、今までのバラモン教の教えとは全く違う優れたものだ、今までの教えを全否定するものだという、優越性、排斥性が強まっていったことも大きく関連します。アートマンの否定です。アートマンとは存在の根源というのが本来の意味ですが、それを個別の霊魂という意味に解して否定していきました。

このことによって、自己の否定、主体の否定へと仏教は大きく傾いていきました。

灰身滅智の思想です。

仏陀の教えはそんなものではない、大いなるものを説いたのだ、と主張して、新たに経典を作っていったのが大乗仏教運動です。

しかし、その大乗仏教の運動も、『縁起だから自性がない、実体がない、無我である、空である』というように主体の否定に傾いていきました。

 

仏陀が本当に言おうとしたのは、自らが因なのだ、ということ。自らが、自らの想い、想いに基づく言葉、想いに基づく身体的な行為(つまり、kamma=身口意の行為)によって、こころによって、ものごとを作り出しているのだ、バラモンにでもなれるのだ、ということでした。

 

自らが創造の主体である、ということです。自らがものごとの因であるということです。

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

 

 

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

 

 

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

 

『因縁因果によって、遺伝子や環境や能力が決まっていてそうならざるを得なかったのだから自由意思はなく、その人の責任ではない。なるようにしかならなかったのだ。』というような薄っぺらい運命論とは、真逆、正反対です。

無我や因縁因果を誤解して、自らを意志のない運命の操り人形と考えるのは非常に愚かしいことです。

それは、古臭い物理法則であり、唯物論にしか過ぎません。条件づけられた脳が外部に反応して信号を出すだけなので自由意思はない、自分はない、自己はない、責任はない、ということを信じ込んで生きれば、どんな悪いことをしても、何人殺そうと罪悪感に苦しめられることはないでしょう。しかし、それは、誤った唯物論から来る虚無思想です。もっとも怖れなければいけない暗黒思想です。

人間の精神こそ創造の主体だということから最も離れています。

大いなるもの、無量なるもの、が現れません。

 

 

それでは、私の言う『自由意思』『自由意志』とは何でしょうか。

私は、外部(環境)からの刺激に、無意識的、自動的に反応するのでなく

『意識的にこの想念を出そうとする』ことと考えています。

つまり、『外界という他によるもの』ではなく

自らが主体的にこういう想いを出そうとして出す想念のことです。

 

他動的な想いをいかに排除していくか、です。

他動的な想いとは、特に自分がどう見られているかをメインに考えて反応してしまうことや、自分の中の『へこみ』が自動的に感情的に反応してしまうこと、です。

このためには、常日頃から、感情の痛みの記憶の束をdeleteする作業が必要です。慚愧とか懺悔とか言われているものです。

残念ながら、今の仏教には感情的な記憶の束をdeleteする方法がありません。

『気づき』『目覚めていること』『観察すること』ばかりです。

出てくる想念に気づいて、ただ観察する手法だけが一人歩きしています。

思考をどんどんなくしていく手法だけです。

しかし、この手法でうまくいくとは全く思いません。

なぜなら、思考は日常生活でなくてはならないものだからです。

思考がなければ、赤信号で止まることもなく事故に遭ってしまうでしょう。

思考をフルに働かせなくては、ごく単純作業を除いてはどのような仕事もできませんし、社会でちゃんと稼いでいくことなどできないでしょう。退職した人など社会との関わりを持たない人はいいかもしれませんが。

掲示板で、『私はいつも目覚めている』『私はすべての想念に気づいている』と言っている人がいましたが、その人は、あちこちの他人の掲示板を覗いてはわざわざその人のスレッドに押しかけては文句を言ったりすることが非常に多かったです。感情的な反応も普通の人より多かったです。『私はいつも目覚めている』『私はすべての想念に気づいている』と口で言っていましたがそれが行ないに何もあらわれていませんでした。

ですから、私は、『いつも気づいている』とかいう手法が本当に有効なのか疑問に思っています。

 

実際に、瞬間瞬間涌いて出てくる想念にいくら気づいていても、その想念が出てくる『臭いの元』を洞察しdeleteしなければ、臭いはそこから次々と出てきます。

部屋の真ん中に、生ゴミを入れた箱を置いておいて、そこから出てくる臭いにいかに気づいてその都度うちわで払っても、その元の箱を取り除かない限り、ずっと臭いは出てきます。

その生ゴミの箱を取り除く方法が、十二縁起であり四念処であり七覚支です。

それに伴う懺悔であり慚愧です。

こころのなかの『へこみ』の成り立ちを洞察することです。

『へこみ』こそが自我だから。