相応部経典第三集 存在の構成要素の集 の中の
『自分を島とすること』は非常に重要です。
自分を島とし、自分を拠り所として、他を拠り所とせず、真理(法)を島とし、真理(法)を拠り所として、他を拠り所とせずにいなさい。
自分を島とし、自分を拠り所として、他を拠り所とせず、真理(法)を島とし、真理(法)を拠り所として、他を拠り所とせず、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが何によって生じ、何によって発生するのかを、根源的に(yoniso va)観察する(upaparikkhitabba)べきである。
では、修行者たちよ、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが何によって生じ、何によって発生するのか。
教えを聞かない凡夫は聖者たちを見ず、聖者の教えを知らず、聖者の教えに導かれない。
かれは、身体(色)を我(自己)であると見、我は身体を所有していると見、我の中に身体を見、身体の中に我を見る。その身体は変化し変異する。
身体が変化し変異することにより、かれに愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生じる。
『色』に続いて、受・想・行・識が同じように説かれます。
しかしながら、修行者たちよ、
身体(色)が無常であり、変化し、消失し、消滅することを知り、過去の身体も現在のすべての身体も無常であり、苦しみであり、変化する性質のものであると、このようにありのままに正しい智慧によって見る者には、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが捨てられる。それらが捨てられるので、かれは恐れない。恐れないので安らかに生きる。安らかに生きる修行者は『確かに寂滅した者』といわれる。
『色』に続いて、受・想・行・識が同じように説かれます。
他を拠り所とせず、自己を島(洲)とせよ、法を島(洲)とせよ。という言葉は非常に有名な言葉で、自灯明法灯明とも呼ばれます。
パーリ涅槃経では、法を島とせよ、の後に、身・受・心・法について、無常であり苦であり非我であることを観じよ、と説いています。四念処です。
この相応部経典では、色・受・想・行・識の五蘊について、無常であり苦であり非我であることを観じよ、と説いています。
続いて、『無常であること』が説かれます。
身体(色)は無常である。
何であれ、無常であるものは苦しみである。
何であれ、苦しみであるものは非我である。(自己ではない)
何であれ、非我であるものは、『これはわたしのものではない、わたしはこれではない。これはわたしの我(自己)ではない。』とこのようにこれをありのままに正しい智慧によって見るべきである。
このようにこれを正しい智慧によって見る者の心は染まらず、執着なく、もろもろの煩悩から解放される。
『色』に続いて、受・想・行・識が同じように説かれます。
この相応部経典からもパーリ涅槃経からも、色・受・想・行・識の五蘊や身・受・心・法について、無常であり苦であり非我であることを洞察することが仏陀の教えの核心だということがわかります。
色・受・想・行・識の五蘊や身・受・心・法について、無常であり苦であり非我であることを知ることが、正しい智慧=正しい見解=正見 なのです。