幻想を剥がして肉体を見ると

  ひだ (124.24.195.46)  

ありがとうございます。
「生苦」が「生きる苦しみ」だとしたら、その中に「老苦」「病苦」は含まれてしまうじゃないか、と以前から思っていました。
ショーシャンクさまのこの説明でスッキリしました。
いま、少しずつ過去記事を読ませていただいていますが、私のような非学浅才な者には難しいと感じることも多くあります。
今回の記事のように、基本的なこともご教授いただける回がありますと非常に嬉しく(たとえばショーシャンク様の瞑想修行の具体的な内容など)ご披露いただけることもあるかも・・・などと密かに期待しています。
 
 
 
 

ひださん、ありがとうございます。

今の仏教は、仏陀の真意とはあまりにもかけ離れていて、基本的な仏教用語もすべて間違った解釈をされています。

 

生老病死の『生』は、『生きる苦しみ』ではなく『生まれる苦しみ』なのですが、これも人類には全く理解されないできました。

『生きる苦しみ』や生活苦であれば非常によく分かるけど、『生まれる苦しみ』など覚えてもないしわかるわけがない、というのはほとんどの人の感想でしょう。

 

しかし、十二縁起を瞑想していたり無量に触れることがあると、ひらめきのようにわかることがあります。

赤ちゃんがなぜ泣き叫んで生まれてくるのか、それは圧迫される苦痛や肌の痛みの感覚、そして今まで一体であったところから切り離されてしまった感覚、これにより泣き叫ぶのです。

これが実感としてわかってくると、仏陀が言った『生まれる苦しみ』がわかります。

 

四念処の『身』は、大便や小便などが出る身、そして腐っていく身、白骨となっていく身というのを観じる方法です。

仏陀の時代には本当に墓場で死体を見て瞑想していたようです。

 

しかし、わざわざ死体などを見なくても、十二縁起を瞑想したりして無量を感じるようになれば、徐々に身体への幻想が剥がれ落ちていきます。

私たちは、今まで、いかにして不浄な部分を少なくし隠しごまかしてきたかがはっきりとわかります。

香水や化粧品、衣装の数々、最新のトイレなど、人類の文化文明は不浄なものを全力で隠してきました。

しかし、幻想を剥がしてありのままに観ると、どのように若くて美しい人でも絶え間なく排泄物を出しているのです。

仏陀はそれを20代のときにありありと観て幻想が崩れ去ったのです。