中部経典の第59は、『多受経』です。
この経典は、仏陀の教説について弟子たちの間で口論になったときの法話です。
弟子のウダーイー尊者は
『世尊は、楽受と苦受と非苦非楽受の三受を説かれた』と主張します。
大工の棟梁のパンチャカンガは
『世尊は、楽受と苦受の二受を説かれています。非苦非楽受は、寂静の勝れた楽の中で説かれています。』と主張します。
アーナンダが、この口論を釈尊に報告します。
釈尊は、
『私は根拠をもって二受を説いています。
私は根拠をもって三受を説いています。
私は根拠をもって五受を説いています。
私は根拠をもって六受を説いています。
私は根拠をもって十八受を説いています。
私は根拠をもって三十六受を説いています。
私は根拠をもって百六受を説いています。』
として、アーナンダに説いて聞かせます。
アーナンダよ、次のような五種の妙欲があります。
眼によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの色です。
耳によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの声です。
鼻によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの香です。
舌によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの味です。
身によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの触れられるものです。
これが五種の妙欲です。
この五種の妙欲によって生じる楽と喜は欲楽と言われます。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
喜びを離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
比丘は、完全に色の想を超え、感覚的反応の想が消え、種々の想を思惟しないことから、『虚空は無限である』として、空無辺処に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
比丘は、完全に空無辺処を超え、『識は無限である』として、識無辺処に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
比丘は、完全に識無辺処を超え、『何ものも存在しない』として、無所有処に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
比丘は、すべてにわたり、無所有処を超え、非想非非想処に達して住みます。
これがさらに優れた楽です。
しかし、この楽が最上であるとは認めません。
なぜならさらに優れた楽があるからです。
比丘は、すべてにわたり、非想非非想処を超え、想受滅に達して住みます。
アーナンダよ、『ゴータマは想受滅を楽であると説いているのは何故か?』と問うものがあればこう答えなさい。
『世尊は、楽を楽受のみについて説いているのではない。世尊はそれぞれのところで得られるそれぞれの楽を楽として説いているのである』と。
つまり、この経典の言いたいことは、釈尊はすべての無苦を楽として説いているということです。