法を見るものは私を見る

【法を見るものは私を見る】


【法を知るものは縁起を知る 縁起を知るものは法を知る】


この2つの言葉はありますが、それぞれ別の仏典にあります。

そして、これが最も大事なことですが
【法を見るものは私を見る】の言葉の中の【法】と
【法を知るものは縁起を知る 縁起を知るものは法を知る】の中の【法】とは指し示すものが違います。

 

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「尊師よ、わたしは、長い間、尊師にお目にかかるために出かけたいと思っていました。が、わたしの身体には、尊師にお目にかかるために出かけるだけの体力はありません」

「もう十分だよ、ヴァッカリよ、お前が、この腐敗した身体を見ても、何になるだろうか。ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
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このことから考えますと、釈尊が言いたかったのは
『私のこの老いて朽ちて腐敗する肉体を見ても何にもならない。わたしは、肉体ではないのだよ。私が説いた法が私なのだから、私の説いた法を見るものは私を見るのだよ。』
と言うことのように思えます。
この場合の【法】とは、釈尊が今まで説いてきた法すべてを表わすように思えます。


対して、象跡喩経の方ですが、
この仏典において、象の足跡と喩えられているのは、四諦の法だと思います。
四諦の法が象の足跡で、他のすべての動物の足跡つまり他のすべての法を包含するくらいに大きいと言われているように思います。
そして、『縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る。』というのは最後のまとめのような箇所です。

とすると、ここでいう【法】は四諦の法、【縁起】は十二縁起、だと思えるのです。
四諦の集諦は十二縁起の順観、滅諦は十二縁起の逆観ですし、
十二縁起は四諦の法を理解する鍵だと思いますので
『十二縁起を理解するものは四諦の法を理解する』という具体的なことではないかと思うのです。

大乗仏教では、この言葉だけが独り歩きしています。
【法】は、【真理】という抽象語とされ、
【縁起】は【あらゆる存在が相依性によって成り立っていて空】という意味合いに捉えられています。

しかし、象跡喩経の内容からすると、どうしてもこの場合の【法】は四諦の法のことだと思われるのです。