輪廻転生について

 
高原 (126.42.33.248)    
ショーシャンクさん、しまとりさんも、こんにちわ。 「久遠」を懐かしい思いで読んでました。あの詩は「眩しい希望」「揺れるような憧れ」「若い信仰」の気持ちが感じられて、あの詩を書いた時の青年ショーシャンクが、ぼくはとても好きです。 ひださんの「輪廻」の話ですが、大正の終わりから昭和の始めにかけて、日本の仏教思想界で大変な「輪廻論争」が起きているんです。始まりは木村泰賢という東大教授の論文から始まり、木村氏は十二縁起と輪廻を結び付けて発表しましたが、それに異を唱えたのは哲学者の和辻哲郎らの学者で「輪廻は存在の真相を解せざる凡夫の立場に起こったものに過ぎない」迷信だと論争を仕掛け、木村氏の他界とともに論争も終わり、それ以降の仏教界は「輪廻は迷信」ということで固まり、大正、昭和にかけて「輪廻はない」が常識になっていました。 木村泰賢教授以外に、輪廻を肯定していた学者を調べてみましたが、大御所の中村元博士でさえ「輪廻は釈迦の使った方便」と言っており、しかし、たった一人、昭和の仏教思想界で肯定していた学者がいました。ショーシャンクさんの尊敬する、ぼくも本を読んだことがありますが、玉城宏四郎先生、この人、一人です。全員が輪廻否定の中、玉城宏四郎という人はさすが大したものだと思いました。 それが、今では新しく出てきている仏教学者たちのほとんどが「輪廻転生は仏教理解の大前提にある」と言っていて、輪廻を認めない仏教はそもそも仏教でさえない全く別のものだと言う学者さえいます。進歩的な学者たちのほとんどは原始(初期)仏教を研究していることも特徴で、やっと時代が玉城宏四郎に追い付いてきたんだと思う。 あと「無我」でも様々な誤解と混乱を見てきた仏教思想ですが、これについては中村元博士が「自己というのは当然ある訳で、無我とは我執がないということです」(心の時代)と解釈を与えてくれています。

 

 

高原さん、こんばんは。

輪廻転生については、仏陀のこの言葉にすべてが言い尽くされていると思います。

 

 

わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経(へ)めぐって来た、――家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて――。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。


家屋の作者(つくりて)よ!汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。

心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

                          (ダンマパダ)

 

 

人類はこの言葉の意味を理解できないで来ました。

仏陀ははっきりと、幾多の生涯を経巡ってきたと言っています。

そしてこの生涯で、やっと、その正体を見破ったのだと言っています。

もはや、家屋を作ることはない、と。

 

このダンマパダの言葉以外にも、いたるところで同様の言葉を残しています。

 

しかし、後世の仏教学者たちは、『仏陀は無我を説いた。無我とは霊魂がないと言うことだから輪廻転生などは説かなかった』などとしてきました。

 

これを見ても、今までの仏教解釈は仏陀の真意とはかけ離れたものであることは明白です。

 

今までの仏教理解など、全部白紙にしてしまわないと、絶対に仏陀の真意などわかりません。私には、尊敬する仏教学者など一人もいません。今まで仏教学者が書いた本で納得したことは一度もありません。

何一つ魂に響かない著作ばかりでした。

 

仏陀の説く理法は極めて微妙で見がたいもの、だから仏陀が成道のとき、『説いても誰も理解できないだろう。説いても無駄だ。私は説くのは止めよう。』と思ったのです。

そして、後世の仏教者を見ると、仏陀のその直感は当たっていたとしか言えません。

 

 

無量心そのものであったのに、個が苦であるということを知らない無明によって、形成作用(samkhara=行)を生じ、家屋(五蘊の集まり)を作ってしまったのです。

 

無明を滅しない限り、形成作用が次々と五蘊を集めていくでしょう。

 

しかしながら人々は、『あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。』という仏陀の言葉を理解できないので、無明を滅することができないのです。

 

『苦』がわかっていないからです。

人生には楽しいことや快楽が溢れています。

それではなぜ一切皆苦というのでしょうか。

私は今まで『一切皆苦』を解き明かした人を知りません。

すべてくだらない解釈でした。

 

よくある解釈としては、『どんなに美味しいものを食べても食べ過ぎると苦痛になる』というもの。スマナサーラも『苦』の解釈でよく使っています。

しかし、はたしてそうでしょうか。食べ過ぎなければいいだけではないですか。

美味しいものを適量楽しく味わって食べればとても満足感をもたらしてくれますね。

少なくとも、その時は『苦』ではない、『快楽』『満足』です。それなら『すべてが苦』『一切皆苦』ではないですね。

 

またこれもよくある解釈ですが『苦とは思い通りにならないこと』というやつです。

はたしてそうでしょうか。

この解釈でも『一切皆苦』とは絶対になりません。

人生、思い通りになることもあればならないこともあるのです。

もし現金で10億持っていれば、かなりの部分が思い通りになりますね。

もちろん、いくらお金があってもすべてが思い通りにはならないでしょうけど、思い通りになることは確実にありますね。住みたい場所でも食べたいものでも。

それでは『一切皆苦』ではないではないですか。

 

このように人類は仏陀の教えを全く理解できないでとんでもなくねじ曲げた解釈できたと思っています。

無我だとか無我じゃないとか、

霊魂があるとか、霊魂はないとか。

仏陀の真意からするとあまりにもくだらない的外ればかりしてきたような気がします。