無量に目覚めること

 
Satya (49.106.217.136)  
ショーシャンクさん、こんにちは。 「よく注意していること」をもう少しわかりよく説明すれば、「目覚めていること」になります。 仏典を確認しているときも、よく注意し、目覚めていなければ言葉の真意がわかりませんし、世間に稀に出現する「法の句」もよく注意し、目覚めていなければ、安らぎに至る因縁が起こりえないでしょう。 仏の教えもよく注意して学び、吟味し、考察し、少年、少女であっても稀に出現させうるであろう「法の句(やさしさに満ちた言葉)」を見逃さない注意深さがあってこそです。 ただ、ソレが法の句であったことは、後づけ(因縁があった後)で判ることです。 『諸仏は一大事の因縁をもって、この世に出現しました。もしも、この真実の法を聞くものがいれば、1人として成仏しないものはいません。(法華経)』

 

 

Satyaさん、おはようございます。

そうですね。『目覚めていること』のほうがすんなり受け入れられます。

もし、私が『目覚めていること』という言葉を使うとしたら、それは『無量に目覚めていること』を指します。

人間は、生まれてからすぐ、特に思考の働きが活発になってからは、無量から遠ざかります。五官の経験が増えれば増えるほど、その経験が記憶の束となり、自我=自己限定を強めていくからです。強い感情を伴った記憶があればより自己限定は強まります。

このようにして人間は苦の集積へと絶えず向かっているのです。

ゆえに、本来の無量へと達しなければならないのです。

心が無量感に満たされるようになると、あらゆるところに無量を感じ取るようになります。

仏典のフレーズに圧倒的な無量を感じることもあります。クラシック音楽に大いなる無量を感じ取ることもあります。

 

仏典でも特に『法華経』や『華厳経』は無量を感じ取れていいですね。