随処作主立処皆真

『因果だけがあって、自由意思はない、主体はない、なるようにしかならない。』というのであれば、

臨済禅の公案よりは、クリシュナムルティ、ノンデュアリティ、親鸞の他力本願のほうが合ってると思います。

禅であれば道元禅のほうが合ってるでしょうね。

 

臨済は

『随処に主と作れば、立所皆な真なり』

『若し能く是の如く弁得せば、境に転ぜられず、処処に境を用いん。

 東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没、

 水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん。

 何に縁ってか此の如くなる。

 四大の如夢如幻に達するが為の故なり。

 道流、汝が祇だ今聴法するは、是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う。

若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん』             

『大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要す』

『若し他をして荘厳せしむれば、一切の物を即ち荘厳し得ん』

『我れ見るに、諸法は空相にして変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。

三界唯心、万法唯識なり。

所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん。』

『唯だ道流、目前現今聴法底の人のみ有って、火に入って焼けず、水に入って溺れず、

三途地獄に入るも、

園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入って 而も報を受けず。』

 

というように、だれよりも、主体性を説いた人です。

なにせ、『随処に主と作れば、立所皆な真なり』なのですから。

どこでも主体であればすべて真だ、というくらいです。

 

公案禅は、臨済禅の流れでできたもので

禅問答の要訣は

外境や人惑や師匠の言説について回らずに

いかに主体を示すことができるか、にあります。

今の臨済禅、公案禅はその物真似で

喝 をしたり礼拝したり平手打ちしたりと形骸化していますが。

 

 

『因果だけがあって、自由意思はない、なるようにしかならないのだ。』

というのであれば、

例えば、『百丈野狐』の公案ならば

『500回野狐の身に生まれても

これは因果でなるようにしかならないものだ。

あるがまま、野狐の身のまま、自由に楽しもう。

これが本当の悟りの境地だ。』

こういうふうに解釈するのでしょうね。

実際にそう書いていた人もいました。

『不昧因果』とは因果に落ちることだと言ってる人もいました。

 

しかし、本当にそんなものが悟りであれば

野狐になった僧が大悟したとたん野狐の身から脱するわけはないですね。

大悟してすぐ野狐は死骸になりました。

因果によって野狐の身のままあるがままでいいのであれば

その因果を背負ってさらに何度も野狐の身に生まれ変わりして

野狐の身のまま楽しむはずですが、実際には即時に野狐の身を脱しています。

これをどう説明するのでしょう。

不昧因果が因果に落ちることであれば

『不昧因果』を聞いて大悟した野狐は

因果に落ちたままそのままあるがままでいいのではないですか。

 

無門は言いました。

不昧不落 千錯万錯

『不昧』も『不落』も、千の誤り、万の誤りだ。

『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。と。

 

この無門の言葉をどう解釈するのでしょうね。