たーぼーさんに教えられて初めて、『クリシュナムルティ ボーム ほか』というブログを見るようになりましたが、このブログ主は面白いですね。
このブログに『不落因果 不昧因果』つまり百丈野狐の公案がありましたので、私なりの解釈をしてみます。もちろん、私は禅の門外漢なので遊びとして。
百丈野狐
百丈和尚、凡參次、有一老人常隨衆聽法。衆人退、老人亦退。忽一日不退。
師遂問、面前立者復是何人。老人云、諾。某甲非人也。於過去迦葉佛時曾住此山。因學人問、大修行底人還落因果也無。某甲對云、不落因果。五百生墮野狐身。今請、和尚代一轉語貴脱野狐。遂問、大修行底人、還落因果也無。
師云、不昧因果。老人於言下大悟。
作禮云、某甲、已脱野狐身住在山後。敢告和尚。乞、依亡僧事例。師、令維那白槌告衆、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無人病。何故如是。食後只見師領衆至山後嵒下、以杖挑出一死野狐、乃依火葬。
師、至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身、轉轉不錯合作箇甚麼。師云、近前來與伊道。黄蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將謂、胡鬚赤。更有赤鬚胡。
無門曰、不落因果、爲甚墮野狐。不昧因果、爲甚脱野狐。若向者裏著得一隻眼、便知得前百丈贏得風流五百生。
頌曰
不落不昧 兩采一賽
不昧不落 千錯萬錯
(読み下し文)
百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず。
師遂に問う「面前に立つ者は復た是れ何人ぞ」老人云く、「諾、某甲は非人なり。過去、迦葉仏の時に於いて曾つて此の山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落ちるや。某甲対えて云く「因果に落ちず」。五百生野狐身に堕す。
今請う、和尚一転語を代わって貴えに野狐を脱せしめよ」と。遂に問う「大修行底の人、還って因果に落つるや」。
師云く「因果を昧さず」。
老人言下に大悟し、作礼して云く「某甲、已に野狐身を脱して山後に住在す。敢て和尚に告ぐ、乞うらくは、亡僧の事例に依れ」。
師、維那をして白槌して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。大衆言議すらく「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなる」と。
食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下に至って、杖を以て一死野狐を挑出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。
黄蘗便ち問う、「古人錯って一転語を祗対し、五百生野狐身に堕す。転々錯らざれば合に箇の甚麼か作るべき」。師云く「近前来、伊が与めに道わん」。黄蘗遂に近前して、師に一掌を与う。師、手を拍って笑って云く、「将に謂えり胡鬚赤と。更に赤鬚胡有り」
無門曰く「不落因果、甚と為てか野狐に堕す。不昧因果、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏に向って一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を贏ち得たることを知り得ん」。
頌に曰く
不落と不昧と、両采一賽。
不昧と不落と、千錯万錯。
わたしたち、迷いの衆生は、『落因果』つまり因果に落ちていて、果であるこの現象界であがいています。色の世界です。
その人たちにとって、この現象界は、鋼鉄のように強固なものです。
因果の世界にがんじがらめになっていて、『因果だからこうなるしかなかった』というような、環境や現象に支配されている、主体のない生き方です。
『不落因果』、因果に落ちない、というのは空の境地です。
十牛図で言えば、第八図 人牛倶忘 です。まんまるの円、空っぽです。
そこは現象世界も全くない、広々とした空間です。真空そのままです。
『不昧因果』、因果をくらまさない、というのは、十牛図で言えば、第九図と第十図です。真空妙有と真空妙用です。
無量心の現れと働きです。
果であるこの現象に主体的に働きかけることです。
自らを因として創造していくことです。
因果にとらわれ、因果の果である現象を堅固なものだと錯覚し、環境に支配されている生き方が、『因果に落ちる』迷いの衆生。
因果を超越したと思い込み、果である現象を無視して、悟りすまして、空の境地に浸ってるのが、『因果に落ちず』。
無量の境地にいながら、因果の果である現象を無視せず、誤魔化さず、現象に主体的に働きかけるのが『因果をくらまさず』。
この老人は、現象、現実から遊離した『空の悟り』を本当の悟りと思い込んでいて学人にもそんな生悟りを教えてしまった。
そのために500回も野狐に生まれ変わった。
自らが創造の主体であることがわからなかった。
しかし、百丈の『不昧因果』によって、自らの悟りが空一辺倒の生悟りにしか過ぎなく何の役にも立たないものであるとわかり、自らの主体を本当に悟り、野狐の身から脱した。
だから老人は『死んだ僧を弔う様式で葬儀をしてください』と頼んだのです。
百丈もその弔い方にふさわしいと判断してそうしたのです。
黄檗は、それを百も承知で、師の百丈に対して『あの老人が答えを誤らなかったらどうなっていたんですか?』と聞きます。
百丈は『近くに来い。教えてやろう。』と言います。
黄檗は百丈に近づいて、師である百丈の顔を平手打ちします。黄檗が主体を示したということです。主体の働きを示したのです。
頌曰
不落不昧 兩采一賽
不昧不落 千錯萬錯
『不落』と『不昧』とは、コースの中の2つの料理、一つのサイコロの違う面であり、同じ類いのもの、似たようなものだ。
『不昧』も『不落』も、どちらも大間違いだ。
弟子の黄檗が師の百丈に平手打ちしたその働きからすると、千錯萬錯だ。