音楽 経典 公案

音楽と経典と公案、これに共通するものは何でしょうか。

わたしの体験では、これらのものは、その人の精神レベルというか悟りのレベルがわかるものだと思っています。

例えば、クラシック音楽をいくらわかろうとして何百回聴いても、わかるレベルにないときは絶対にわからない。特にマーラーなどの難解といわれている曲は。

経典、例えば法華経も、わからないときはどんなことをしてもわからない。

白隠は若いときに法華経を読んで、『こんなたとえ話だけのもの。講談本を読むのと変わらない。』と言って放り出しました。

しかし、悟った後、法華経を読み返してみたらその意味が手に取るようにわかって号泣したといいます。

公案もそうです。禅の門外漢でも、仏陀の真意がわかるようになってきて、なにげに公案を見てみると、これが手に取るようにわかってくる。牛過窓櫺の公案なんて、全く馬鹿馬鹿しいと思っていましたが、いま読んでみると有り難くて泣けてきます。なぜこれがわからなかったんだろうと言う感じです。

し者裏に向かって顛倒して,一隻眼を著得し,一転語を下し得ば,以って上四恩に報じ,下三有を資くべし。其れ或いは未だ然らずんば,更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。

頌に曰く,過ぎ去れば抗塹に堕ち,回り来たれば却って壞る。

者些の尾巴子,直に是れ甚だ奇怪。

 

この無門の言葉が魂に響いてきます。

 

マーラーの交響曲でも、法華経でも、牛過窓櫺の公案でも、それをわかろうとしていくら探求してもわからない。

だけど、その人がある一定のところに触れると、わかろうとあがかなくても自然と魂の底からわかってくる。

公案というのは、その人の悟りのレベルをはかるのに最もわかりやすいものなのかもしれません。

 

いくら理屈を詰め込んでも、自分でいくら『私は悟ってる』『私は目覚めている』と他の人のところまで行って触れ回っても、そんなことは無駄なことです。

また、いくらマーラーを聴いても、法華経を読んでも、公案を考えても、悟ることはできません。

ただ、精神が広がれば、自然と音楽も経典も公案もわかってくるのだと思います。

逆に言えば、音楽もわからず、経典の深い意味も分からず、公案もわからなければ、その人の精神は広がっていないということです。いくら、自分が悟っていると触れ回っても、そう思い込んでいるだけ、これらのはかりで見ればいいのです。