アドヴァイタと禅

>このIstlanさんが「アドバイダと禅宗は同じ」とおっしゃっていて、ぼくも「そういわれればそうなな」とも思いますが、ショーシャンクさんはどう思いますか?

 

 

アドヴァイタと言っても、大きく2つあるような気がします。

もともとアドヴァイタとは、シャンカラを祖とします。

このシャンカラのアドヴァイタと、最近のいわゆるネオアドヴァイタ(ノンデュアリティ)は全く違うものと思ったほうがいいでしょう。

実際、シャンカラからの正統アドヴァイタからは、ネオアドヴァイタは似非アドヴァイタだと強く非難されています。

それで、最近はネオアドヴァイタと名乗らずに、ノンデュアリティとばかり名乗るようになりました。

シャンカラとの根本的な違いは、『付託』ということをネオアドヴァイタは説かないことです。

そのような難しいことは抜きに、とにかく『ワンネス』なんだ。それだけだ。という主張です。

教えは簡単にすればするほど民衆には人気となり流行ります。

ウィスキーのストレートは飲みにくく、水で薄めれば薄めるほど飲める人が多くなります。

 

私なんてない、全体しかない、個なんてない、ただのストーリーなんだよ、自由意志なんてない、ただ起こっているだけ、誰も何もどうすることもできない、災害があっても災害を受けている個はない、こんな感じです。

 

アドヴァイタと禅は同じだと思うかという質問ですが、たとえば、禅の印可を受けた愚さんという人のブログを見るとアドヴァイタそのものですね。

『ワンネス』のみです。

目の前のパソコンは私だ、とか、床が私だ、とか、あなたは私だ、とか、すべてワンネス一辺倒ですね。

この人の公案の解説を見ると、ワンネスだけで解釈しようとしていることが分かります。

しかし、それでは牛過窓櫺の公案は絶対にわかりません。

牛が禅で言う本来の面目なのはいいのですが、それでは牛の尻尾は何故通り過ぎないのか、全く答えが出ないでしょう。

 

禅でも道元などはワンネスそのものですね。

 

ただ、私が禅の最高峰だと思うのは臨済ですが、臨済はネオアドヴァイタとは全く違う。

臨済に、『自由意思はない。ただ起こっているだけ。』なんて言うと、三十棒では済まないでしょうね。

 

 

 

 

 >面白いのが、ぼくもスッパニパータの三乗論に異和を感じましたが、Istlanさんは石飛さんの「龍樹論」「仏教論」を厳しく批判をしてて、テルゼさんも石飛さんを批判なさっています。 「センセが『センセだけの法』を握りしめて、センセの手の中で曲げてませんこと?私だけがブッダの正法を伝える役目を担っていると、その慢心のもとに、ご自分の中で都合よく」とテルゼさんが石飛さんに言っておられて、テルゼさんは石飛さんの著書を何冊を読んだ後の発言だけに、これだけ皆さんから非難を浴びるということは、石飛さんの「龍樹観」「仏教論」には決定的な破綻(ほころび)があるのではないかと思いました。

 

 

私が思うのは、石飛先生が龍樹の研究者でなく、仏陀の研究者ならどんなによかっただろうということです。

非常に鋭い感性をお持ちなので、画期的な研究となったと思います。

龍樹や大乗仏教をいったん抜きにして、直接、仏陀が本当は何を言いたかったのかを研究していただきたかったと切に思います。

今の仏教は、仏陀の本当の姿など跡形もなくなっているからです。

ちょうど、イタリアかどっかの国で地方の教会に描かれたキリストの絵を素人のお婆さんが修復して全く違った絵になったというニュースのように、仏陀の本当の姿は全く違った姿に描かれてしまった気がします。