仏陀の真意=無量心 から解釈する法華経自我偈

私は歴史上の仏陀の真意を探求してきました。最古層の仏典からわかった仏陀の真意は素晴らしいものでした。もちろん、一時的で、まだずっとその無量にあることはできてないですが、垣間見た無量から法華経を訳してみました。

大乗仏典は、仏陀の教えによって目覚めた人たちが次々と創作したものです。そのため、筏はないのですが、芸術作品としては素晴らしいものです。

なぜ、大乗仏教が生まれたのかもはっきりとわかるようになってきました。それについても、この『今まで絶対に書けなかったこと』で書いていきます。法華経全二十八品の全訳もいつかはしたいと思っています。

歴史上の仏陀の真意から大乗仏典を見ることができれば、小乗大乗という争いがなくなり、仏教の全肯定に進むことができるかもしれません。

今回、法華経の真髄の中の真髄、法華経如来寿量品自我偈について、仏陀の真意、無量からの訳をしてみます。

 

 

 

 

法華経如来寿量品自我偈】仏陀の真意、無量からの訳

 

私は、実に無量百千万の昔から無限の大海であるのだ。

ある時には仏陀として現れ、ある時には諸仏として現れ、また様々な覚者として現れ、無量劫において常に法を説いて無数の衆生を無量の境地に入らしめてきた。

衆生を救うために、方便をもって、波として現れ 波として滅を現じる。

しかし、本当は滅度などしておらず、常に無限の大海として此処に住して法を説いている。

私は常に此処に住しているが、顛倒の衆生は、その顛倒妄想によって近くても見えないのだ。

衆生は、私が死んだのを見て広く舎利を供養し、皆強く恋慕し、渇仰の心を生ずる。

衆生が強く信じ、正直で柔らかい心となり一心に仏を見たてまつらんと欲して自らの身命を惜しまないならば、その時、私と私の弟子は共に霊鷲山に現れる。

その時、私は、衆生に語る。

私は実に無限の大海であり、常に此処にあって滅したことなどなく、方便力をもって波としての生死を見せたのだ。

他の国に恭敬し信じる衆生があれば、私はそこに現れ無上の法を説く。

汝等はこれを聞かず、ただ私が滅度したと思っている。

私が見るに、もろもろの衆生はみな、苦海に没している。

故に、仏陀の個体を滅して姿を消し、衆生に渇仰の心を生じさせる。

衆生に恋慕の心が生じれば乃ち出でて為めに法を説く。

神通力はこのようである。

永遠の昔から、私は常に霊鷲山やその他のあらゆるところに遍満し、山となり、川となり、海となり、星となり、宇宙となって輝いている。

衆生が生滅するこの世を見て世の終わりと嘆くときも、我なる大海に浮かぶ波は穏やかで光り輝いており、天人は充満し、園林や諸堂閣は種々の宝で荘厳され、宝樹には花が咲き誇り果実がたわわに実っていて、衆生が遊楽している。諸天は天鼓を撃って常に妙なる音楽を鳴らし曼陀羅華を仏や衆生に降らしている。

我が大海に浮かぶ波はこのようであるのに、諸々の衆生は悪業の因縁のせいで阿僧祇劫を過ぎても三宝の名前さえ聞くことができず憂怖や苦悩という大火に焼かれている。

しかし、心が柔和でまっすぐになれば、その瞬間、私が無限の大海でありここにあって法を説いているのをたちまち見るであろう。

 

仏の慧光は無数劫に無量を照らしている。

汝ら智がある者よ、ここにおいて疑いを生ずることなかれ。まさに断じて永遠に疑いをなくしてしまえ。仏の言葉は真実なのだ。

医師が自分の狂った子を治すために、死んでいないのに死んだと言って方便を使って救ったように、私もこの世の父でありすべての苦悩を救う者なのだ。

凡夫は顛倒しているがゆえに、無限の大海が今ここにあるのに見えないのだ。凡夫は、ずっと仏陀という個体が存続すると考えるとそれに頼り、おごりの気持ちを生じ、怠けて五欲に執着し、悪道に堕ちるだろう。

私は、常に衆生がどのくらい心境が進んでいるかを知って、それに応じて種々の法を説く。

私は、無限の大海として、常にこう念じている。

すべての衆生が無量の境地に達し、無限の大海になりますように。