中心のない大海

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たーぼーです。 ショーシャンクさんこんばんは。 全ての現象は心が作り出すという気持ちが日に日に強くなってきてます。 そうすると、日本の大乗仏教が仏陀の真意から外れて、こんなに歪んでしまったのは、私の心が歪んでしまったからではないかと思うんです。 つまり仏法といえども私の心から独立したものではなく、私の心が映し出した現象に過ぎないと思います。 最近、何か他の禅などをスマホで見ていると、ちょっと以前と変わってきて、何かまともになってきたというか私好みに変わって来てるような気がしてます(笑 気のせいでしょうか?
 
たーぼーさん、おはようございます。
心が極限まで広がっていけば、宮澤賢治のように、世界のすべては自分の心の現れだと本当に感じることができるのだと思いますが、現実には、肉体を持ち感覚を持っているわけです。この、感覚⇒経験⇒記憶⇒思考⇒自我 という形成作用は止むことがありません。ここを放置していて、世界を動かす気分になっても、それは気分だけになってしまって現象として現れません。
無量心とは、喩えると、無限の大海です。現象は、その大海の上に浮かんでは消える波です。無限の大海には中心がありません。中心がないから無限なのです。
ただ、私たちは肉体を持ち感覚を持ち記憶の束を持っています。それを『私』と呼んでいます。つまり中心を持っているのです。
 
仏教つまり、大乗仏教や部派仏教を問わず、過去の記憶の束をdeleteする方法を捨て去ってきました。自我という中心を洞察する方法も捨てています。
 
今思うのは、いくら頭や気分で『ワンネス』だと言っても、それはただの気分なので、精神を現実から遊離させるだけになってしまうということです。
 
ノンデュアリティの指導者で、『すでに目覚めている』などの著作もあるネイサン・ギルという人は自殺しました。病苦を抱えていたとのことです。
いくら口で『私はすでに目覚めている』『私など無い』『あるのはワンネスだけ』『すべては起こっているだけ』などという悟りすましたような言葉を並べても、病苦で自殺してしまうのです。
ノンデュアリティにしても、今までの仏教にしても、何かが違うと言わざるを得ないです。
想像上の広がりではなくて、広がりを限定している中心を洞察することで中心を消滅し無限の大海に到達すること。
これが本当ではないかと思っています。