最も大事な部分

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、こんにちは。
「整えられた自己」という言い方、それが非我だということも理解出来ています。
「実体があるか、ないか」については今でもよく分かりません。
ずっと自分という実体を感じてきているだけに、佐々木閑先生が、実体はないと言われた時は少し「本当に?」と違和を感じました。
「整えられた自分」は「非我」とは言え、その時点は実体であるし、ショーシャンクさんが言われたように「実体」は「ある」とも「ない」とも断見してはいけないのではないかと。
こないだお話してた「見性」のことを書こうと思いパソコンを開くと、その論文がないのです。
似たような論文はあったのですが、書いてあった所が書いてなかったり、なかった所が書いてあったり、以前読んだ論文もどちらもW・ジェイムズ(心理学者)著の「宗教体験の諸相」という本を資料にして書いているので、どちらも内容は似ているのですが、やっぱり違う。
以前に読んだ論文を引用しながら書こうと思っていたのですが、それはできなくなったので自分の記憶を辿って近いうちに投稿させていただきます。
このブログを読まれるような方々なら、「見性」のことは絶対に知っておくべき重要なことと思います。
「見性」とは神秘体験に属することで、誰でも体験することではありませんが、我々が普通に考えているよりも遥かに多くの人が普通に体験しています。
禅や日本人特有のものではなく、キリスト教圏やイスラムでも、世界中いたる所の人たちに同じことが起こっています。 脳科学者が研究もしていますが、科学での究明はまだされていません。
ぼくは「見性」とは、誰の脳にもプログラミングされていて、何らかの条件が揃った時に、何かの切っ掛けでダウンロードされるのが「見性」だと、分かりやすく言えば、そんな風に考えています。自分でも知らないうちに見性という神秘体験をしている人もいるでしょうし、逆に自分は見性したと思っている人で全くの勘違いの人もたくさんいると思います。 近いうちに、「見性」についてまとめてみて改めて投稿させていただきます。

 

 

 

高原さん、こんばんは。

 

仏陀は自らの理法を『時を要しない、目の当たりに実現する法』と言いました。

ゆえに、仏陀在世中には、膨大な数の人たちが涅槃に至りました。

 

今の仏教は、実体があるだのないだの、相対を超えるだの、無我だの、一元だの、観念のお遊び、言葉のお遊びに堕しています。

 

『仏教は無我だ』と、生半可に仏教をかじった人は言いがちです。

しかし、それでは、自燈明の『自』とは何か、自らを島とするとはどういうことなのか、こう問われると曖昧な答えしか返ってきません。

『仏教は一元だ』という人もいます。『あなた』も『わたし』もない、一なるものだ、と。目の前のパソコンも自分だ、床も自分だ、と言う人もいます。

しかし、本気でそう思っていたら1時間たりとも生きていられないでしょう。

 

残念ながら、今の仏教には、仏陀が残した理法の最も大事な部分がごっそり抜け落ちていると考えざるを得ません。

 

仏陀の悟りの核心、三明とは何か。

仏陀は三明によって何を悟ったのか。

四諦の法で煩悩の滅を成し遂げ解脱に至って、7日間ほど解脱の楽しみに浸っていながら、そのあと十二縁起を順逆観じたのはなぜなのか。

そして、十二縁起を順逆観じて、なぜ『もろもろの疑念が消滅して、太陽のように立つ』ことができたのか。

 

『毒矢』とは何を指すのか。

『激流』とは何を指すのか。

 

実体があるだのないだの議論しているうちに、死王は花を摘んでしまう。

台風が猛威をふるっているときに、台風に実体があるだのないだの言っても、台風には実体がない、無我だ、といくら大声で叫んでも、台風はおかまいなしに人も車も家も吹き飛ばしていきます。

 

仏陀の残してくれた理法を歴史の堆積物の中から掘り起こしていくことは、大きな意味があることでしょう。