自由意志とは

id:tabotan  

ショーシャンクさん、また一人私やショーシャンクさんと感覚の合う人を見つけたよ。 良かったら「クリッシュナムルティ 、ボーム、禅」というブログ見てください。 禅者が因果だけがあって自由意思などないと言い張っている中でカルマさんという人が反論してて、それが結構いいです。ダンマ(無量)をしっかり掴んで分かっている人です。
 
 
言われて初めてそのブログ見てみました。
仏陀が本当に言ったことを知らずに、大乗仏教の抽象論をぐちゃぐちゃ弄んでいる感じですね。
因果だけあって自由意志などない、など運命論にしか過ぎません。
運命論は仏陀が最も嫌った考えの一つです。
 
すべてカルマのなせるもので、こうなるしかなかったんだ、というのは、それは自分の責任は無くなったと感じられて肩の荷は降りるでしょう。
しかし、最も大切な自由意志まで無くしてしまうとは、最もしてはいけないことです。
これが白隠の言う『たらいの水と一緒に赤子を流す』ということです。
赤子をたらいで洗った水、汚くなった水は捨ててもいいですが、最も大事な赤子を捨ててはいけないのです。
 
 
そのブログの文章を載せます。他人の文章を勝手に俎上に載せます。すみません。
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自由意志はない、という表現に、虚無感や無力感、不気味さを感じてしまう人もいるようですが、表層での理解だとそのように感じてしまうものなのかもしれません。

自由意志がない、すべては因縁で動いている、ということをきちんと理解できれば、それは大きな救いになりますよ。
例えばですが。 どうしようもなくアル中な人がいたとします。また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。その人たちは、なぜそうなのでしょう?脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。自分を責めてもしかたないんです。(責める、ということさえ、そうなるしかないからそうなってるんで、それはそれでいいんですけど。)自分を責めてもしかなない、というのは大きな救いですよ。責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。また逆に、とても才能があり優秀な人というのも、脳、身体の特性、環境、遺伝などからそうであるということで、その人個人の持ち物でもないのです。

因果しかない、自由意志はない、というのを、理解するのは結構大変です。情緒的に反発するからです。どうしても、自由意志があるような気がしてならないからです。

それは、そうです・・・・・自由意志がないということになれば、無力感を感じますから・・・

ところが、実際は、逆のことが起きます。あらゆることがただの因果だとわかったとき、肩の荷がおります。ホッとします。つまり、努力することがすべて無駄であったということに気が付きます。これは、ホントに楽になります。真理に達する道はないことが、ありがたいんです。あがくのを止めます。あがくのが止めば、真理は目前に現前します』

 

因果しかない、自由意志はない、ですか。すべてはカルマのなせるもの、ですか。

馬鹿馬鹿しい。

仏陀が言ったkamma(業・カルマ)とは、行為、行ないのことです。

行為、行ないと言っても、私たちが思う身体的な行為だけではなく、身口意の行為のことです。

つまり、心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。

仏陀は

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

と言いました。

身口意の行為をすることは自由意志です。

つまり、身口意の行為=カルマ をすることは自由意志なのです。

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

故に

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

と言います。

清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう

この『汚れた心で話したり行なったりする』『清らかな心で話したり行なったりする』というのがカルマ=身口意の行為です。

カルマに縛られるとかいうのも原意を知らない愚かなことです。カルマ=身口意の行為こそ自由意志なのです。

 

アルコール中毒の人が、「自分がアルコール中毒になったのは、生まれのせい、環境のせい、親のせいであって俺には何の責任もない」と考えれば、なるほど責任感、罪悪感からは解放されるでしょう。

しかし、最も重要な、『自分の自由意志でバラモンにもなれるのだ』という真理を捨て去ってしまうことになります。

『たらいの水と一緒に赤子を流す』という愚かなことです。

 

 私が使うときの『自由意志』とは非常に簡潔です。

それは、『外界に自動的に反応するのでなく、自分が主体的に出していこうとする想い』のことです。

私たちは、そのほとんどの想いは外界=環境に振り回されていて、環境(人など)に反応して自動的に想いが出るのであり、自分で出そうと思って出す想いはほとんどありません。

意識的に出す想いを、私は念(sati)と呼んでいます。

今の上座部仏教では、sati は気づきと訳されていますが、私はそうは訳しません。

外界に、自分の記憶の束が反応する、そのような思考ではなく、外界と関係なく意識的に出す想い、それは自由意思です。

 

 

 

 

赤い実 (123.217.210.189)    

ショーシャンクさん、おひさしぶりです。 愚さんという方のブログに私がコメントした文章の、アル中の人云々のところなんですが。 「責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。」というのをきちんと書いているんですけど、なぜそこは抜かして、否定的にだけ捉えようとするのでしょう? あのブログで、愚さんや私が言わんとしているのは。 自由意志はない(因果因縁ですべては動いている)ということが理解できれば、世界と自分に対しての理解が深まり、新鮮な目で世界を見られるようになり行動も変化していく、ということですよ。 知ろうとせずに否定から入ってもしかたないとは思います。

 

 

 

赤い実さん、おひさしぶりです。『愚さんという方のブログに私がコメントした文章』と言う意味がわかりません。赤い実さんはあのブログにコメントしていたのですか?私が引用したのは、その時のブログの一番上にあった文章です。あの文章は、ブログ主が書いたものではないのですか?

それは置いといて、禅であれ、浄土門であれ、ノンデュアリティであれ、『自由意志はない』などというような教えには大反対です。

それは仏陀の教えとは真逆ですし、私が考える限りでは、そのような考えでは人間は最も悪い方向に行ってしまいます。人を無気力にする虚無思想です。あるいは薄っぺらい運命論です。

責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』ということですが、アル中を治そうとする意思は自由意思ではないのですか?

アル中を治そうとか、この世をよくしようとか、身体を健康にしようとか、この世をカンバスとして自由に夢を描く、というのも自由意思ではなく、因縁因果とやらに支配されていることなのですか?業縁だとか、因果だとか、そういうものに操られているのが私たち人間だとでも?

馬鹿馬鹿しい。

そんな考えは、本当の仏陀の教えとは真逆ですし、人間から最も大事な『意志』を剥奪し現実から遊離した人間ばかりを増やす誤った考えです。

 

 

 

 

赤い実 (153.223.183.46)    

ブログの文章は。最初の方の部分は私の文章で、「因果しかない、自由意志はない、というのを理解するのはけっこう大変です。」という部分からは、愚さんというブログ主の文章です。 この世界のすべては、因果因縁に拠って成っている。 それは事実ではないですか? それから外れるものなど何もないでしょう。 ということは、自由意志というものは、原理的に「ない」ということですよ。 感情論で、「そんなことはない。」と言ってみてもしかたないです。 すべては因果因縁に拠って成っている、ゆえに自由意志というものはない、というのは、いわば、「世界は実はこうなっている」という設計図を示されているようなものです。 設計図を見て腑に落ちれば人は納得しますよね。 譬えで出している、アル中を治そうとする意志ですが。 ある人が「これは自分の意志である。」と思うことにより救われるのであれば、そう思うことは何の問題もないですよ。 それで救われるなら。 ただ。すべては因果因縁に拠り成っていて、ゆえに自由意志はない、というのは事実だということです。 事実を言っているだけです。
 
 
 
 
歴史上の仏陀、本当の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が説いた「縁起」とは本当はどういう意味か知ってますか?
これは私がずっと言ってきたことで、仏陀の真意は今の仏教のどこにも伝わっていないのです。要するに、今の仏教は仏陀が説いたものとはかけ離れた似非仏教です。
 
縁起と言うのは、苦の縁って起こる原因のこと、その完成形が十二縁起であり、相応部経典や中部経典などのどのパーリ仏典を見ても、縁起とは苦の縁って起こる原因のことです。ゆえに、仏陀が成道したとき『縁の滅を知ったので疑問はすべて消え去る』と言って解脱したのです。
縁が、あらゆる存在を成り立たせるものであれば、『縁の滅』などはあり得ないですね。
縁起とは苦の縁って起こる原因のことであるので、仏陀は『縁の滅』つまり苦の根本原因の滅を知って解脱したのです。仏陀の出家の動機は苦の消滅の探求でした。
もし違うというなら、パーリ仏典をすべて当たってみればいいでしょう。
 
それを仏陀の死後数百年の後に現れた龍樹が、『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない。実体がない。空である。』という独自の理論を打ち立てたのです。
これにより、『あらゆる存在は、他のすべての存在によって成り立っている。自分など無い。自性などない。空である。』というのが仏教の根本だとなっていきました。
 
歴史上の仏陀が説いた言葉に、『あらゆる存在は、他のすべての存在によって成り立っているから自分など無い。自性などない。空である。』というようなものがひとつでもありますか?出してみてください。
それははるか後世の者が勝手に作り上げた理論です。
今では『私たちは他のすべての存在に縁って生かされているの。だって、そうでしょ。食べている米も農家の人が作ったもの、着ている服もその素材を作った人がいる。それには空気も水もいる。人は自分一人では生きていけないの。周囲のものに生かされているのよ。それが縁起。縁起だから自分なんてないの。』みたいなことが仏教の本質だと考えられています。
歴史上の仏陀はそんなことは一言も言っていません。
『縁起だから空』などと言ったことはありませんし、『縁起だから自分がない。自由意志がない。』などと言ったこともありません。
『無常であり(つまり、生じたものは滅するものであり)苦であるものを、私、私のもの、私の本体だと言っていいであろうか?』と言ったのです。
つまり、無常なものは非我と言ったのです。
 
仏陀が説いたkamma(業・カルマ)とは、身口意の行為、行い のことです。
心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。
心の想い、想いにもとづく言葉、想いにもとづく身体的な行為 のことです。
 

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

 

自らの想い(それに、想いに基づく言葉、想いに基づく行為)によって、バラモンとなるのです。

自らの想い(それに、想いに基づく言葉、想いに基づく行為)によって、現象が現れてくるのです。

ものごと、現象(環境)はその人の想いによって作り出されるのです。影のようにつき従うのです。

もし、因果というなら、意思、想いが因で、物事、現象が果です。

自由意思が因であり主です。ものごとはそれにつき従うのです。

 

その最も主であり原因である自由意思を否定するのは、虚無思想、運命論であり、最も怖ろしい邪法です。

 

今の仏教には仏陀の真意は伝わっていません。

 

そして、シャンカラが起こしたアドヴァイタも本来の意味からかけ離れたノンデュアリティ(似非アドヴァイタ)になっています。

アドヴァイタを名乗っていた人たちがなぜ最近アドヴァイタと言う言葉を使わずにノンデュアリティという名称に変えたか知ってますか?

それは、シャンカラから伝えてきた正統アドヴァイタの人たちから、『そのようなものはアドヴァイタではない。似非アドヴァイタだ。』と強い非難をされたからです。

ノンデュアリティの人は『すべては起こっているだけ。そこには自由意思はない。自分もない。』 と言います。意思をなくして、現実社会に力強く対処する原動力もなくしてどうするのでしょう。

 

どうしようもなくアル中な人がいたとします。また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。その人たちは、なぜそうなのでしょう?脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。自分を責めてもしかたないんです

赤い実さんが言うような、罪悪感を持たない人、責任感を持たない人、環境や遺伝のせいにする人は非常に増えていますね。

自分の身勝手な欲望のために何人も殺してしまった犯罪者でも、環境や親のせいにして自分に責任はないと言う人も数多いようです。

良心=無量心 に少しでも目覚めると、懺悔の気持ちは沸き上がってくるものです。

それによって、過去の記憶の束がいかに限定されているかを知り、deleteできるのであって、自分の責任など無い、すべては環境のせい、遺伝のせいで、俺が悪いんじゃない、などと考えていたら、罪悪感に苦しむことはないでしょうけど、犯罪者によくある『環境や人のせいにする責任逃れの甘え人間』を増長するだけです。

 

いいですか?人間は自分に起きていることはすべて自分が原因なのです。アル中の人がいて、その人がアル中なのはその人が原因なのです。自らの起きることの原因は自分です。であるので、自分がアル中を治すこともできるのです。

自分以外のものがすべての原因で自分の意思などなくアル中になってしまったのなら、自分の意思でアル中から抜け出すことなどできないですよね。

 

自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?

自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

                   (ダンマパダ 160)

 

 

 
 
赤い実 (123.217.205.19)    
たびたびお邪魔します。 どうも話がかみ合いませんね。これも因果因縁ということなんでしょうけど。(笑) 私が言っているのは。世界は実はこうなっているよ、という設計図ですよ。 自由意志というものがあるように見えているけれど、すべては因縁因果に拠って成っている、ということ。 それは、自然現象だけでなく人間界にも貫いていますよね?という話です。 何も、普段から、「自由意志なんてない。」なんて言わないですし、自分の責任を放棄してもいい、だなどとまったく言っていません。 ショーシャンクさんにとっては、そういうふうに認識されるもの、なのでしょうけれど。 自灯明というのは、四念処から得られるものだという話をたしかされていましたよね。 ここでも書かれていますが、無常なものは非我であるということを明らかにしていくのが四念処ですよね。 無常なものは非我ということは、身体や思いというのは非我ですね。 それが理解できれば、そこに新しい力が自ずと湧いてくる、ということ、これは、「自由意志はない。」と理解できれば、逆に自ずとそこに新しい別の力が湧いてくる、というのと同義になりますよ。 と、言っても、認めたくはないでしょうけれど。 言えるのは。 ノンデュアリティも玉石混交で、きちんとしたものは本も重版されて広まっていて、多くの人に役立っているということです。 それは、ショーシャンクさんがノンデュアリティ(非二元)を訝しく思おうと事実ではあります。 どういうことがそこで言われているのかを、先入観なしに見てみるか否かは、どれだけ、「記憶の束からの束縛」を受けているか否かの試金石になるかもしれません。
 
 
ですから、『すべては因縁因果に拠って成っているから、自由意志なんてない、自分なんてない』というのは仏陀の真意ではないと言っているのです。
むしろ真逆です。
環境などの『他』を主としてはいけないのです。
『他』に従属し、反応するのは記憶の束です。
そのようなものをdeleteして主体的な想い、意識的に出そうとする想い、自由意志こそが重要なのです。
自由意志がものごとを作り上げるのです。
因縁因果などという薄ぼんやりした曖昧なものなどに支配されてはいけないのです。
因縁因果と書いてますが、具体的に何ですか?
 
環境に従属した想いを出す人は多くいます。
環境にとらわれずに主体的な想いを出す人もいます。
無量からの想いは自由意思です。
条件付けられたりはしない。
 
新しい力が自ずと湧いてくる』のは自由意思ではないのですか?
責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』と書いてますが、アル中を治そうというのは自由意思ではないのですか?
 
四念処とは、身⇒受⇒心⇒法 です。
身は滅するもの、腐っていくものだと観じること。
受は身の六入によってあり、精神を縛るもので苦であることを観じること。
心はその時々の受によってふわふわと起こってくる思いでとりとめもなく生じ滅するものだと観じること。
法とは、観念、記憶の束という思いが集まったもので、私ではないとdeleteすること。
 
四念処⇒択法⇒精進 の択法とは
四念処の身⇒受⇒心⇒法の法を捨て、仏陀が説いた理法を選択してそれを念=記憶して留めること。
 
一言で言えば、環境に従属した思いを捨て、主体的な思いを出すことです。
それが自己を主とすること、自由意思です。
 
 
赤い実 (123.217.215.227)    
すみません。質問です。 さきほど書き忘れました。 >いいですか?人間は自分に起きていることはすべて自分が原因なのです。 と書かれています。これは、もちろんご自分にも貫かれているとお考えでいいですよね? であればですが。ヤフー掲示板にいろんな人が来てトピが荒れたようになったのも、ショーシャンクさんが原因とお考え、ということでいいのですね? 他の誰一人として荒れた原因になった人はいない、と考えていらっしゃる、そして当時もそのように考えていらしたということですか? このブログで、「ここならアラシも来ないので。」という文章を去年の夏ごろでしょうか、文中に書かれているのを見たんですよ。 アラシが来ていた、と認識していたということと、「自分にだけ原因がある」というのは両立しうるんでしょうか? なにか、体裁を繕って綺麗ごとを言っているようにも感じられはします。  もちろん。ショーシャンクさんのあのトピには大勢の人々がやってきて、それでも真摯に対応されていたと思うのです。 荒れた原因というのは、ショーシャンクさんだけにあったのではなく、そういう因縁因果に拠り成ったのだと私は思いますよ。 ただ、これは。誰にでももちろん、私ももちろんなのですが、「自分のどこか良くなかったのか。」というのは、どれほど痛くてもその都度、考えてみる必要があるだろう、ということです。 このあたりの話を掲示板の最後のあたりで、ショーシャンクさんとしたかったのですが、話の持って行き方が不味くて伝わらず、怒りを買ってしまうだけになってしまったのは、少し心残りではありました。 今のこの話も、どこまで伝わるか自信はないのですが・・・。 めんどうでしたらスルーしていただいてかまいません。
 
 
その質問にもすでにはっきり答えています。
大事な日に雨が降るのも、晴れるのも、つまり自分に起こるすべての環境は自分が作り上げたものだと考えています。
つまり、想いが主となり、ものごと、環境が影のように現れてきます。
しかし、雨の時は傘をさします。想いで雨の環境を引き寄せたからと言ってずぶ濡れにはなりません。傘をさすでしょうし、軒下に逃げ込んで雨宿りするでしょう。
同じく、誰かが刃物で襲い掛かってきたら、落ちている棒を取って防御し戦うでしょう。あるいは全速力で逃げるでしょう。あるいは警察を呼ぶでしょう。刃物で刺されるままになどしません。
すべて自分の想いが現象になって表れてくるので、卑小な思いばかり出していると卑小な環境になって表れてきます。だから、卑小を離れ無量に近い思いを出していこうとするのです。しかし、卑小な思いも多く出しているのでそういう現実が現れます。それだけのことです。
アラシが来ると言っても、浄土真宗の寺のmicだけでしたね。アラシは。
これは酷かったですね。
30も連続投稿を続けて私の投稿が表示されるのを邪魔していました。
親鸞を否定することを私は書いていたので、浄土真宗のその人はそういう嫌がらせを延々と続けてきました。これは私の信念が引き寄せた出来事です。
いくら迷惑投稿をされても、私は同じ主張をしていました。
hさんは、最初は同じく迷惑投稿していましたが、最後には、私だけといっていいほど丁寧で教養のある投稿をされるようになりました。
 
micのようなアラシも雨と同じです。雨のかからないところに雨宿りしたり傘はさします。
 
 
赤い実 (123.217.211.184)  
>因縁因果と書いてますが、具体的に何ですか? すべてのものは、因縁因果に拠り成っている、ということですよ。 山も海も身体も心も。 >『新しい力が自ずと湧いてくる』のは自由意思ではないのですか? >『責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』と書いてますが、アル中を治そうというのは自由意思ではないのですか? これね。自然と湧いてくるものなんですよ。 すべての思い、こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです。 自分が考えている、と通常は考えられるでしょうけれど、そうではなく自然と湧いてくるものです。 瞑想、坐禅をする人ならわかりそうなものですが。 で、何かを決意した、その決意を、「自分が決めた。」と思い、そう思うことによっていい気分になれるならそれでいいんじゃないですか、ということを言っています。 原理的に言って、非我であるものが自ら決定できますか? それとも、わざわざ四念処までして非我を知ろうとするのは、形だけのものですか? 条件づけられたものから湧いてくる、湧いてきたものを、「自分が決定した。」とするのは、方便としては有効でしょう。 しかし、原理としては、非我であるのだから、決意も湧いてくるものである、という捉え方を私はしている、という話です。 ショーシャンクさんはショーシャンクさんの認識のされ方で別にいいのではないでしょうか。 私の見解に説得しようというつもりはありません。 もしかしたら理解していただけるかな、と思い、私の投稿が引用されていたのでコメントしには来ましたけど。
 
 
だから、赤い実さんがいう、その因縁因果とは何ですか?と聞いています。
山、海、身体、心、が
どのような因縁因果で成っていると考えているのですか?
 
 『こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです
だから、それが自由意思ではないですか。
外界に条件付けられて反応する思考でなく、自ら起こる思いは自由です。
つまり、自らに由るということです。
 
もう一度よく読んでください。
理解できないのなら、話すのは時間の無駄です。
条件付けられたものから沸き上がるものが自由意思だといつ書きましたか?
人の文章はちゃんと読んで理解してから投稿してください。
無我、非我だから何もないというのが虚無思想です。
限定という我 がないのが非我です。
限定がないとき無量となる、その無量から起こる想念は自由意思です。
ここまで何度も言ってわからなければ無駄ですね。
 
 
  赤い実 (123.217.211.184)    
お手数をおかけしております。 お答えいただきありがとうございます。 >大事な日に雨が降るのも、晴れるのも、つまり自分に起こるすべての環境は自分が作り上げたものだと考えています。 そうですか?  ショーシャンクさんの「思い」って天気まで作り出せる、と考えていらっしゃるのですか? 私はそんなものはない、と思いますよ。 因縁因果に拠って、天気は変化するでしょうけれど、自分の思いとは関係ないでしょうね。 >すべて自分の想いが現象になって表れてくるので、卑小な思いばかり出していると卑小な環境になって表れてきます。だから、卑小を離れ無量に近い思いを出していこうとするのです。しかし、卑小な思いも多く出しているのでそういう現実が現れます。それだけのことです。 人間関係には、思いが影響を及ぼすのは当然あるでしょうね。 卑小な、と書かれていますが、具体的にどのように卑小な思いが、あの掲示板の状態に影響を及ぼした、と考えられているのですか? 雨宿り、傘をさす、ということを否定するつもりはありません。
 
 
これもすでに書いているでしょう?
本当に文章をちゃんと読んでから質問してますか?
『アラシが来ると言っても、浄土真宗の寺のmicだけでしたね。アラシは。
これは酷かったですね。
30も連続投稿を続けて私の投稿が表示されるのを邪魔していました。
親鸞を否定することを私は書いていたので、浄土真宗のその人はそういう嫌がらせを延々と続けてきました。これは私の信念が引き寄せた出来事です。
いくら迷惑投稿をされても、私は同じ主張をしていました。』
こう書いてますよね。
つまり、親鸞を否定するという私の信念が引き寄せたことです。
それはどんな嫌がらせをされても、曲げませんでした。
自分の信念に従わずに親鸞凄いと言えば嫌がらせはなくなったかもしれませんが、
私はそうはしませんでした。
micに関してはそれが原因です。それはすでに書いているのですが。
質問をするときはちゃんと読んで理解してからしてください。
 
 
ところで、赤い実さんは、私のブログは見ませんから、と言ってませんでしたか?
どうせ嘘だろうとは思っていましたが。
 
『すべては因縁因果で起こっているだけ』なのなら、ヤフー掲示板でもしてましたが、なぜ赤い実さんは、人のスレやブログにまでわざわざ来ていろいろ言おうとするのでしょう?
すべて起こっているだけなんでしょ?
何かを自分の力で変えようとする自分の心を少しは見つめた方がいいですよ。

 

 

赤い実 (123.217.211.184)    

>だから、赤い実さんがいう、その因縁因果とは何ですか?と聞いています。 >山、海、身体、心、が どのような因縁因果で成っていると考えているのですか? ほんとにわからないんですか? 普通に考えればわかることじゃないですか。 例えば。ショーシャンクさんが自分のトピに親鸞批判を書いたので、みちおさんが来た。 来た理由は他にもあるのかもしれませんが、とりあえずそれですよね。 それは因果ではないですか。 山は、海から隆起してできた陸が、さらに火山活動などで出来たものですよね。 風雨に削られ変形したりもしていきます。 こうした、自然現象、人間界のことすべては、因果因縁に拠り成っている、ということを言っています。 >『こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです』 だから、それが自由意思ではないですか。 ですから。そうしたものを「自由意志だ。」と思いたいなら思ったらいい、それで自分が納得がいく、救われるなら、と書いていますよね。 >限定がないとき無量となる、その無量から起こる想念は自由意思です。 沸き上がってくるものは自分の意志ではないですよ。原理的に言えばそうなります。 しかし、それを自由意志と呼びたいならそれでいいのではないですか、ということです。 前にも書いてますが。 非我であることがわかると別の力が沸き上がってくる、というのはたしかにそうで、それを自由意志だと取るか(ショーシャンクさんの意見)、いやそれも自由意志とは言えない(私の意見)という違いがあるだけ、だと思いますよ。 話がかみ合わないようですので、これについては終わっていただいてこちらとしては構いません。
 
 
ああ、つまり物理現象の原因結果のことを言っているのですね。
山は地球の物理現象により隆起してできたと。因縁因果でなるようにしかならなかったと。
しかし、その山の所有者の意思によって、その山を全部削って平地にして住宅地分譲するか、その山のままで置いておくか、どちらの判断もできる場合、その人個人の意志で山が全部無くなったりあったりしますね。
なるようにしかならないわけではなく、人間の意志、判断で無数の選択肢があり、すべては不確定であり、その変化の可能性は無限です。
つまり、このように物理的なことだけで考えても、人間の意志によって、つまり人間の意志を原因としてどのようにも主体的に作り上げることができるではないですか。
因縁因果だから自由意思がないなどと言うのは、全くの空論です。
まあ、赤い実さんの反論も予想できます。
その山の所有者の判断も条件付けられてそういう判断をするしかなく、山がなくなるのも因縁因果でそうなるしかなかったんだ、山の所有者の自由意思などないんだ、というのでしょう。
そういうことであれば、薄っぺらい運命論にしか過ぎませんね。
仏陀の本当の教えがこのようなくだらない理論と勘違いする人が増えないのを祈るばかりです。
 
まあ、平行線ですからこの辺で終わりにします。
自由意思がないなどと言うのは、無我という言葉を勘違いして虚無思想に突き進んだ仏教の弊害だと思っていますよ。
やはり、本当の仏陀の真意を復興させなくてはと切実に思いました。
 
赤い実さん、これ以上は平行線なのでこれで終わりにしますね。