たーぼーさんもお元気そうで何よりです。
>キリスト教の三位一体とは、父、子、聖霊の一体ですね。
キリスト教については、聖書を読んだり映画を見たり音楽を聴いたりいろいろ考察してきました。
映画『沈黙』を観たとき、衝撃を受けました。宣教師が、日本人の信者に関して、『十字架など形あるものを求めすぎる』とその信仰を心配する場面がありました。
その場面を観たときに、いままで培ってきた私の中の日本人素晴らしい論が音を立てて崩れていきました。
ひょっとすると、日本人には、あるいは東洋人には、形而上的な理解が難しいのではないか、と思うようになったのです。
私は、イエス・キリストを描いた映画はほとんどすべて観ています。
バッハの『マタイ受難曲』が史上最高の音楽だろうというのもうすうす感じています。
その上で言えば、日本人にキリスト教が理解できる人がいるのだろうか、と思っています。
『源氏物語』が日本古典の最高峰であるように、日本で愛というのはもっぱら性愛でした。
クリスマスに異性とホテルに行くのが定番な日本人に、あの厳しいキリスト教がわかるものだろうか、というのが私の今の正直な気持ちです。
少なくとも、私には、『マタイ受難曲』の厳しい世界とは、薄膜のようなもので隔てられている感覚があります。
ですから、安易にキリスト教は語りませんし、仏教と結びつけていいかどうかはわかりません。
仏教徒はさかんに、相対性理論や量子力学を持ち出して、仏教を語ろうとしますが、そのほとんどは生半可な科学知識を仏教にこじつけたトンデモ説になっています。
キリスト教の三位一体説が、私には理解できないので、たーぼーさんが言われている、キリスト教の三位一体と仏教の仏法僧が同じという解釈はわたしにはよくわかりません。
>以前、やり取りしていた時は、ショーシャンクさんは確か因果を否定していたような記憶があります
いえいえ。私は因果を否定したりはしていません。
ただ、今の日本で解釈されている『因果』も『縁起』も、歴史上の仏陀が言った意味とは全く違うとは思っています。
仏陀が言った『因果』の因とは、kamma(身口意の行為)のことです。
『因果』の果とは、現われてくる現象や境涯のことです。
それを仏陀は、因果と言ったと思っています。
日本人のほとんどは、大乗仏教の解釈で歴史上の仏陀の言説を理解しよう、こじつけようとするので、仏陀の真意からはかけ離れてしまったと思っています。
また、部派仏教の国のように、大乗など仏説ではない、という大乗非仏説で大乗を否定してしまうのも間違いです。
まずは、仏陀が説いた時代に立って、原始仏典から仏陀の真意をくみ取り、その上で、なぜ大乗仏教が興ったのかを考えていくことが正しい仏教の理解だと思っています。
身口意の行為が『因果』の因というのが私の考えです。
現われてくる現象、境涯というものが『因果』の果だと思っています。
もし、誰かに出会うような現象が起きるとすれば、それは、身口意の行為を原因とした果としての現象です。
誰かに出会ったりすることが果ではないとは、私は言った記憶はないですね。
書いたものは削除せずに残していますから、もしそのような意味のことを書いていたら、それを引用してみてください。
現代の仏教解釈では、因果も縁起も、物理的な原因結果と考えているようです。
因果も縁起も物理的な原因結果だとする仏教解釈がいかに多いか。
これは全く違うと私は考えています。
もちろん、それでいいと思いますよ。
『自らを島とし、法を島とせよ』が仏陀の教えです。
『法』をどう捉えるかは、自らの自己責任になります。
私の解釈が100%正しいなんて思っていませんし、他の解釈が100%間違っているとは思っていません。
歴史上の仏陀はこういったのではないかと言う、私なりの見方を書いているだけです。
ですので、ご自分の信じる道を突き進むべきだと思います。
ご精進ください。
今年は今日で終わりです。
良い年をお迎えください。