他を頼りとせず

 たーぼー (126.158.222.179)  
お元気そうで、なによりです。
最近このブログも読んでなくて、久しぶりに拝読させて頂いたところキリスト教の話が出ていたので書き込まさせてもらいました。
私なりに、この解釈で正しいと思っているのは、キリスト教の三位一体とは、父、子、聖霊の一体ですね。
これは仏教の仏法僧にあたると思っています。
キリスト教の父が仏(宇宙と言ってもいい)、聖霊にあたるのが法(因果といってもいい。
より正確には因縁性)子にあたるのが僧(身体もしくは、より正確には身体の働きです) 
何故そう思うかと言えば、やはり自分の体験が一番大きな要素であり、
なおかつキリスト教という世界宗教がそれ程おかしな宗教であるはずがないと思うからです。
おかしな宗教なら、ここまで大きな宗教にはならないと思う。  
この仏法僧の解釈もショーシャンクさんとは、違うかもしれませんね。
以前、やり取りしていた時は、ショーシャンクさんは確か因果を否定していたような記憶があります。
しかし、私は以前と違うのは、もう今の私は、誰か自分以外の人が何か書いても、それがどれだけ偉大な人物であろうと、
今の私には人に惑わされるということが遂になくなりました。
自分を作り上げたというか、30年あっちこっち右往左往してきて、やっと自分が固まったなという感じです。
今はやっと自分と意見が違う人がいても、あぁ私とは違う意見の人なんだなと思えるようになりました。
それが最近の私の変化です

 

 

 

たーぼーさんもお元気そうで何よりです。

>キリスト教の三位一体とは、父、子、聖霊の一体ですね。

>これは仏教の仏法僧にあたると思っています。

キリスト教については、聖書を読んだり映画を見たり音楽を聴いたりいろいろ考察してきました。

映画『沈黙』を観たとき、衝撃を受けました。宣教師が、日本人の信者に関して、『十字架など形あるものを求めすぎる』とその信仰を心配する場面がありました。

その場面を観たときに、いままで培ってきた私の中の日本人素晴らしい論が音を立てて崩れていきました。

ひょっとすると、日本人には、あるいは東洋人には、形而上的な理解が難しいのではないか、と思うようになったのです。

私は、イエス・キリストを描いた映画はほとんどすべて観ています。

バッハの『マタイ受難曲』が史上最高の音楽だろうというのもうすうす感じています。

その上で言えば、日本人にキリスト教が理解できる人がいるのだろうか、と思っています。

『源氏物語』が日本古典の最高峰であるように、日本で愛というのはもっぱら性愛でした。

クリスマスに異性とホテルに行くのが定番な日本人に、あの厳しいキリスト教がわかるものだろうか、というのが私の今の正直な気持ちです。

少なくとも、私には、『マタイ受難曲』の厳しい世界とは、薄膜のようなもので隔てられている感覚があります。

ですから、安易にキリスト教は語りませんし、仏教と結びつけていいかどうかはわかりません。

仏教徒はさかんに、相対性理論や量子力学を持ち出して、仏教を語ろうとしますが、そのほとんどは生半可な科学知識を仏教にこじつけたトンデモ説になっています。

 

キリスト教の三位一体説が、私には理解できないので、たーぼーさんが言われている、キリスト教の三位一体と仏教の仏法僧が同じという解釈はわたしにはよくわかりません。

 

 

>以前、やり取りしていた時は、ショーシャンクさんは確か因果を否定していたような記憶があります

 

いえいえ。私は因果を否定したりはしていません。

ただ、今の日本で解釈されている『因果』も『縁起』も、歴史上の仏陀が言った意味とは全く違うとは思っています。

仏陀が言った『因果』の因とは、kamma(身口意の行為)のことです。

『因果』の果とは、現われてくる現象や境涯のことです。

それを仏陀は、因果と言ったと思っています。

 

日本人のほとんどは、大乗仏教の解釈で歴史上の仏陀の言説を理解しよう、こじつけようとするので、仏陀の真意からはかけ離れてしまったと思っています。

また、部派仏教の国のように、大乗など仏説ではない、という大乗非仏説で大乗を否定してしまうのも間違いです。

まずは、仏陀が説いた時代に立って、原始仏典から仏陀の真意をくみ取り、その上で、なぜ大乗仏教が興ったのかを考えていくことが正しい仏教の理解だと思っています。

 

 

>しかし、私は以前と違うのは、もう今の私は、誰か自分以外の人が何か書いても、それがどれだけ偉大な人物であろうと、今の私には人に惑わされるということが遂になくなりました。
>自分を作り上げたというか、30年あっちこっち右往左往してきて、やっと自分が固まったなという感じです。
>今はやっと自分と意見が違う人がいても、あぁ私とは違う意見の人なんだなと思えるようになりました。
>それが最近の私の変化です
 
 
これは素晴らしい変化ですね。
人に惑わされることがなくなる、というのは、仏陀の本意だと思っています。
臨済も、仏法の最重要なことは『人惑を受けざれ』だと言っています。
私の解釈が正しいと思ってもらう必要は全くありません。
実際、間違っているかもしれませんし。
ただ、今までの概念にとらわれずに仏陀の真意を探求するきっかけになればいいと思って出した本です。
『他を頼りとするな』『人を信じるな』『他人を信じるな』というのが『自燈明法燈明』ですから、たーぼーさんの変化は素晴らしいと思いますよ。
 

 

 

 たーぼー (126.166.137.209)  
因果について言えば、身口意はもちろんそれにあたると思います。
行い、言葉、思いと言いかえてもいいと思いますが、当然それらは因果だと思います。
しかし、以前確か誰かと出会うことは因果ではないと書いておられたと思いますが、私はそういった出会いも含め因果だと思っています。
 
 

身口意の行為が『因果』の因というのが私の考えです。

現われてくる現象、境涯というものが『因果』の果だと思っています。

もし、誰かに出会うような現象が起きるとすれば、それは、身口意の行為を原因とした果としての現象です。

誰かに出会ったりすることが果ではないとは、私は言った記憶はないですね。

書いたものは削除せずに残していますから、もしそのような意味のことを書いていたら、それを引用してみてください。

 

現代の仏教解釈では、因果も縁起も、物理的な原因結果と考えているようです。

因果も縁起も物理的な原因結果だとする仏教解釈がいかに多いか。

これは全く違うと私は考えています。

 

 

 

 たーぼー (126.166.228.132)  
私はその考えには賛同出来ません。
身心口が因果の因になるは、良くわかりますが、私は因果でないものは、この世にないと思っています。
身心口などという理屈が入る余地なく真理が因果がだからです。
因果一如です。
身心口が因果の因とは、既に考えを経ているように思います。 
まぁ細かいことは違ってても良いです。
なにはともあれ、来年もよいお年を。
 
 
 たーぼー (126.166.228.132)  
結局これを掘り下げていくと、おそらくショーシャンクさんは自己の世界があるだけだと、仰りたいんじゃないのでしょうか?
私はそうは思いたくないんです。 正直に言うと、そう思えなくもないんだけど、そんな自己の世界があるだけなんて、つまらないと思うから。
 
 
 たーぼー (126.166.228.132)  
だから法華経より般若心経の方が好きなのかもしれません。
 

 

もちろん、それでいいと思いますよ。

『自らを島とし、法を島とせよ』が仏陀の教えです。

『法』をどう捉えるかは、自らの自己責任になります。

私の解釈が100%正しいなんて思っていませんし、他の解釈が100%間違っているとは思っていません。

歴史上の仏陀はこういったのではないかと言う、私なりの見方を書いているだけです。

ですので、ご自分の信じる道を突き進むべきだと思います。

ご精進ください。

 

今年は今日で終わりです。

良い年をお迎えください。