想いは雲にしか過ぎないのか?

こういう喩えを聞いたことがあると思います。

青空と雲の喩えです。

われわれは本来、青空なのであり、雲によって青空が隠れているだけである。雲がなければ青空だけの状態である。雲とは想念のことで、青空とは空(くう)または観照意識のこと。

似たような喩えに、太陽と雲、月と雲、などがあります。

確かに自我は思考からできています。思考者が思考するのではなく、思考が思考者を作ったのだという言説は正しいものです。

ゆえに、思考をなくしてしまえば、自我はなくなる、青空だけの境地になる、というわけです。

もちろん、日常生活する上で最低限の思考は仕方ないとしても、必要最小限にとどめることがよいとされています。

想念は雲であり煩悩なので、なくせばなくすほどいいというわけです。

この考えによって、無念無想になることが悟りとされてきて、無思考型の瞑想、座禅が主流となっていきました。

または、想い、想念にいつも気づいていること、想いをただ見ている観照意識でいること、が重要視されてきました。

青空と雲の喩えでいうと、青空でいるためには、雲を断ち切っていくか、雲は現れては消えるものなのでそれにとらわれずに観照していくか、という2つあるものの、雲は無価値なもの、あるいは邪魔なもの、青空を妨げるものという認識は同じです。

あるいは、自分は青空だと分かったのだから、雲があろうがなかろうが青空であることは変わらない、だから雲はいくらあってもいい、という考えも生まれました。

 

さて、29歳で家を出て一介の修行者となった仏陀が、最初に行ったのは、アーラーラ・カーラーマ仙人のところです。そこで最高の瞑想の境地とされた無所有処定に、仏陀は簡単に到達します。しかし、仏陀は『これは涅槃に至るものではない』としてそこを離れます。

次に行ったのが、非想非非想処定を教えるウッダカ・ラーマプッタ仙人のところでした。この瞑想もすぐに到達しますが、やはり仏陀はそれは涅槃や解脱に至らないとして離れていきます。

無所有処定も非想非非想処定も思考の停止を目指すものです。

仏陀がそこを離れたのは、思考停止型瞑想が涅槃に至らないと思ったからです。

 

学者でありながら真摯な修行者であった玉城康四郎はその著書『ダンマの顕現』の中で、学生の時から熱心に参禅し、『大爆発』つまり見性も数多く体験し、公案も次々に解いていったということですが、いつも数日で元の木阿弥になり、79歳の執筆時にも我塊はそのままだと記されています。

 

日本の仏教は想いをなくすことが悟りだという方向に行きました。無心といわれるもの、それは無思考状態でしょう。しかし、想いは波動であり、根本的なもので、座禅の時に強制的になくすことはできたとしても日常生活でなくすことはできません。顛倒妄想の状態のまま、思考を無理矢理なくそうとするとむしろ非常に悪い方向に行くことがあります。禅病といわれるもので、人格が破たんすることもあります。

仏陀は最初に入門した無思考型の瞑想を捨てて、独自に十二縁起の瞑想をして悟りへと到達しました。これを見ると、真理の観念を徹底思考して顛倒した見方を正しい見方(智慧)に大転換しなくてはいけないことがわかります。大転換して智慧が生じてから無思考型の禅定はするべきなのだと考えます。

最終的には、真理の観念も筏に過ぎす、捨て去るものではあるかもしれませんが、必ず必要なものでしょう。

いまは時代なのかもしれませんが、方法論も筏もなく、何気に『私はない』と気づいたという人がYouTubeなどでノンデュアリティとして何人も出ています。非二元をシャンカラから知っている私にはネオアドヴァイタ=ノンデュアリティという今の風潮は非常に危険なものに思えます。

あるブログに次のような記事がありました。

サットサンは、まず彼女の言葉は「先ほどの、たまちゃんの料理はどこに行ったのでしょうか?」という問いかけで始まりました。

「それはどこにもないのです。何も起こっていないのです」という言葉でした。

それを聞いた瞬間、さっきまでのたまちゃんの料理によって

感じていた暖かな優しい感覚を、まるで打ち消されたかのような

虚しさが一瞬起こりましたが、もちろん、彼女が伝えているのは

「体験したと思っていることも、実際は起こっていない

なぜなら、それを体験する個人がいないから」ということであるし

その言葉自体にも意味はないわけです。

彼女は、「私はいない」「何も起きていない」「体験している人がいない」

「ただ湧いているだけ」という、メッセージを繰り返し、伝えられていて

メッセージそのものには、違和感はなかったのですが

ただ違和感を感じたのはその場にいると、ハートがどんどん閉じていくと’いう私の感覚の方でした。(中略)

 

そして、2日間のサットサン&サウンドヒーリングが終了しその翌々日、おさむが

「俺、ノンデュアリティ・シンドロームにでもなったのかな?

何だか、すべてが虚しくて、何もやる気がしない。

いつもはセッションも楽しいのに全く楽しいという感覚が湧いてこない何もかもが虚しい感覚なんだよね」

と言い出したので

「ぶぶ、きっとサットサンの会場で、他の人のエネルギーから

何かもらってきたんじゃないの?」などと言いつつ、では、さっとセッションして浄化しとく?と

おさむのセッションをスタートしたわけです。

ところが、セッションをスタートしてみると、何やらいつもとは様子が違います。

何か強烈なエネルギーがそこにはありました。(中略)

 

そのエネルギー体が一体、何であるかも、はっきりと出てきたのですが

(ここで言わなくてもわかる人にはわかるかも)それらのエネルギー体は

「ピュアさ」「人を見下す」「人を愛せない」「冷酷さ」「特別意識」

という性質のものでした。

そうして、私が菜穂さんに会って漠然と感じたものが何だったのかも次第にわかってきました。

 

菜穂さんが、もともと、つまりノンデユアリティの意識になる前から

人との共鳴力が低く、自分の感覚を受け取りにくい性質や脳であることは

これまでたくさんん方の脳や性質を見てきたので、何となく気づいていました。

だから、何も質問する気が起こらなかったのだなあと。

質問しても、この人は言葉の真意を受け取らない、理解できないという感が半端なくあったからです。

ノンデュアリティの意識だから、彼女のような答え方になるのではなく、もともとそういう性質や脳なので

参加者の質問に関しても、それぞれの意識に合わせてわかりやすく話をすることはできないわけです。

というよりは、彼女は発信している、という意識にはいないのでわかりやすく話をしようという気もないわけですね。

 

例えば、菜穂さんが「たくさん批判のメールが届くのよね~」と言って、ケラケラ笑った後に

参加者の一人が「それでは菜穂さんは、批判のメールが来た時にそれをどう捉えるのですか?」

という質問をしました。

 

「ふ~ん、という感じかな」と菜穂さん。

 

その方は「それじゃあ、そういうメールが来ても

ふ~んと捉えておけばいいってことですね?」

 

「実際は、ふ~んとも思っていないかな。何も感じない」と菜穂さん。

 

きっと、これでは伝わらないなあ~と

漠然と感じていました。

 

そもそも批判されている、ということ自体が個人としての意識であり

菜穂さんは、私という感覚がないので

批判されている、という認識そのものがない、ということなんですよね。

でも、もし、批判された〜と感じているのにも関わらず

それを頭でコントロールして、何も感じないようにしようとしても

それは、自然な感覚や感情が抑圧されるだけだなあと。

 

「批判する人は、何か人のせいにしたいのよね」と菜穂さん。

 

それで、気づいたのは、菜穂さんは「私はいない」という感覚でいるのですが

だからといって、ワンネスや一体感の中にいるわけではないということでした。

 菜穂さんが、感受性が強く、繊細で臆病な子供だったというのも

今の彼女を見ていてよくわかるのです。 

人との共鳴力やつながり感がなければ、世界は怖いものにしかないからです。

 

この記事を読んで、よくわかりました。この菜穂さんという人はノンデュアリティでは、最も有名な人のようです。非二元に気づいているという触れ込みで、禅僧とも講演をしていたりしてます。

しかし、ノンデュアリティという人たちをYouTubeで見る限り、どうしても愛や慈悲や優しさの波動を感じないのです。自分の気づきや感覚をただ延々と述べているだけのような印象です。不思議に思っていましたが、この記事によってはっきりわかりました。『私はない』と気づいていても一体感、無量感の中にはいないということですね。

つまり記事の中にある、

「ピュアさ」「人を見下す」「人を愛せない」

「冷酷さ」「特別意識」

ということなのだと思います。

 

やはり、筏、つまり想いは、絶対に必要ということでしょう。

 

対人恐怖症や強迫観念が苦しすぎて、別の自分が自分の想念を見ている感覚になったときに、救われたような感じになったということではないでしょうか。

湧き出る想いをいくら観察しても、その元がそのままですから、想いのレベルは変わらずに湧き出ます。限定はそのままですから、限定=自我観念からの想いはそのまま出ていて、無量からの想いは出ていません。そして『気にしない自分』『私などない』ということを自我を持ったまま自分に強制することになりますから、またまた自我は深く意識の底に潜り込むようになるのではないかと思われます。