大法と小法

よく法華経などに『大法』と『小法』という言葉が出てきます。

『今、仏世尊は大法を説き、大法の雨をふらし、大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べんと欲するならん。』(序品)

『少智は小法を楽(ねが)って自ら作仏せんことを信じず』(方便品)

 

さて、大法と小法とは何でしょうか。

私は極めて単純明快にこう考えています。

 

人を無量感、無限感、一体感に導くものが 大法

人を限定感、無力感、分離感に導くものが 小法

 

ですから、どの仏典が大法、どの仏典が小法、ということはありません。同じ法華経でも、その人その人の解釈によって、無量に導かれればその人にとって大法であり、独善的な解釈をして分離感に導かれればその人にとっては小法だということです。

 

仏典であっても聖書であっても祝詞であっても、どのようなものであっても、『その人を人を無量感、無限感、一体感に導くものが大法、その人を限定感、無力感、分離感に導くものが小法』と考えています。

経典でなくても、名もない十歳の子が書いた詩がその人を無量感に導くならその詩はその人にとって大法だということです。