ネオ・アドヴァイタ(ノンデュアリティ)の人のブログから

YouTubeなどで最近人気があるらしいノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の人のブログに、その参加者とみられる人の批判コメントがありましたので、貼ってみます。

アドヴァイタはシャンカラが起源で、ネオ・アドヴァイタはシャンカラからの正統アドヴァイタからすればどうしても似非アドヴァイタと呼ばれることが多いのですが、その参加者のコメントでもその理由の一つはわかる気がします。

 

ブログの題名【Escape – 逃げ】ブログ本文『幻想のわたしは、常に何かを手に入れることと、苦しみを避ける二つの動きをしている。人生は、この二つ動きの繰り返し。しかし、普通は、よくなることが良いことで、もっと自分の望みを叶えることが人生の目的だから、一般的には、普通のことかもしれない。わたしは、苦しみから逃れるのに、ストーリーを一生懸命良くしようとする。ただ、ストーリーをよくすることでは、苦しみから逃れられない。なぜなら、ストーリーの中には、みんなが求めている避難場所はないから。喜びの感情も、ワクワクの感情も永遠の避難所にはなりきれない。どこまでいっても、ストーリーの中には、永遠に続く満足はない。なぜなら、ストーリーの現実=分離の現実 つまり、完成じゃない現実だから。みんなが求めているのは、完成だよ。それは、これからの完成じゃなくて、すでにある完成。これからどこまでいっても出会えない完成。だって、すでに完成しかないから。so much love from love』

 

批判コメント『私はもう、20年弱、仏教や瞑想、禅、ヨガなどを探究してきているので、「幸せとは何か?」と問われたら、「涅槃」と答えますね。一般社会がくだらなく見えます。別に菜穂さんの話を聴く前から、(無常については)もう既に聞いてきていることです。あなたの2冊目の本。これこそ、すべて、「個人的アイデア」単なる個人的な体験談であって、どこまで信用出来るのか分かったものではありません。自分以外の「何か」が見たとありますが、その説明も不十分。ヨーガ・スートラも読んだことがないのでしょう。私、私という想念はアスミタというのですよ。ブッダの話を聴いただけで、それが落ちて預流果に悟った在家の話がありますが、トニー・パーソンズ自体、
信用できる人物ではない。彼は伝統派からは似非アドヴァイタと批判されています。グレッグ・グッドのインタビューを読むと分かりますが、50年代から70年代にかけて著作活動をしていた心理学者B・F・スキナーの原理的な決定論、行動主義の教えとそう違わないそうです。言葉に惑わされて、「凄い!」と思わされてしまう。いくら、被害者はいないと強弁しても「被害」がないわけではありません。各地の震災の被災者の前で、あなたが話をすれば、もう非難囂々でしょう。私はもう、二度とあなたの話は聞きませんが、お願いしたいのはお父様がお亡くなりになっても、同じことをいって欲しいですし、将来、ご自分が病気になっても同じことをいって欲しいと思います。私は晩年、皮膚ガンになる可能性が高く、この冬は特に痒みで苦しんでいます。あなたの発言は許せるものではありません。他のみなさんも目を覚ませて欲しい。楽園の様子だけを語られて、肝心の地図がない。方法論がない。

先生「もう、既に楽園にいるよ。」
生徒「その実感がないんですよ!」 

このやり取りが一生、サットサンで続くのですよ。
時間の無駄だと思いませんか?

もう、コメントもこれで投稿するの、終わりにしますし、もう二度とサットサンには参加することはありません。ちなみに、ノンデュアリティというのは伝統派からの批判を避けるため、アドヴァイタという言葉を使わなくなっただけで、それまでは「ネオ・アドヴァイタ」と呼ばれていました。何も新しいことじゃない。』

 

 

この批判コメントをしている、サットサン(集会のことですかね?)に出入りしていたと思われる人も『一般社会がくだらなく見えます』と書いていることからすると現実社会から遊離している方向性で、ネオ・アドヴァイタに惹かれたのでしょう。

この人の批判の要点は2つですかね。

『楽園の様子だけを語られて、肝心の地図がない。方法論がない。』『生徒「その実感がないんですよ!」』・・・・・方法論がなく筏がなくつまりどこにも行き着けないということ。

『いくら、被害者はいないと強弁しても「被害」がないわけではありません』・・・・・私はいない、誰もいない、大災害があっても被害者はいない、ストーリーだけがあって、ここからここを自分だと思っているだけ、などというまやかしを批判してます。

 

この2点、どちらもそうですね。

 

前に、自分の息子を地震で亡くした人にあてた手紙で、良寛が『災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候』と書いたことを批判したら、ある人が飛んできて文句を言ってきたことがあります。最愛の息子を大地震で亡くしてしまった人に対して、その言葉は無量心からは出てこない言葉だと思います。良寛の最愛の貞心尼が大地震に遭って亡くなりそうなときに、良寛は苦しんでいる貞心尼に向かって『災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候』とは絶対に言えない。自分ができもしないことを人に説教してはいけない。その言葉は上っ面だけの言葉で、無量心から出る言葉ではない。それを言っていいのは、自分に対してだけです。

 

私はいない、だれもいない、被害を受けている人もいない、といくら頭の上っ面で言ったとしても、そんな悟りすましている人が、刃物を持った男に襲われそうになったら当然必死で戦うか、逃げるかするでしょう。ストーリーがあるだけ、被害者はいない、すべてはただ起こっているだけ、観照意識でいなさい、観照者でいなさい、などと言ってることはできないでしょうね。守るべき自分もなければ、何も起こってもいない、のであれば、なぜ、棒をもって戦うか、必死で逃げるか、するのでしょう。

ネオ・アドヴァイタは、正統のアドヴァイタからすれば似非アドヴァイタと呼ばれているように、現実から遊離したまやかしです。

 

ゆえに、正統的なアドヴァイタ例えば、フランシス・ベネットというアドヴァイタの人もネオ・アドヴァイタに関して危惧の念を抱いています。この記事のように。

『フランシス・ベネットという非二元についての本も出している元修道士が最近こんな感じのことを書いていた。現代の西洋でのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに対するアプローチは抽象的で虚無主義的で粗暴で現実離れしている。個人、身体と心、現象世界、貧困や飢えや戦争や環境等の社会問題といった現実を否定することが多い。そうしたアプローチは無意味さや無気力の感覚につながることが多い。リトリートや個人セッションを繰り返してきたなかで、そういう教えによって落ち込んだり、人生に意味を見いだせなくなった人たちにたくさん出会った。』