仏教についてのひとりごと 97

<<もしそれが変化し日本仏教の考え方がショーシヤンクさんの期待している本来の釈迦仏教に戻ったとしたら 在家信者の生活はどうなるのですか! 一変するのですか?。在家がどう仏教にかかわるようになるのか 理想論で結構です その辺のところ教えて下さい>>

じゅんさん、はじめまして。
仏陀の真意に基づく仏教復興運動がこれから出てきたとしても、釈尊(歴史上の仏陀という意味で釈尊とここでは呼ぶことにしますが)の時代の在り方にはなりません。時代が全く違います。
仏教に根本分裂がなぜ起きたか、ご存知ですか?
釈尊の死後100年くらい経って、お布施をお金でもらう比丘が出てきたからです。
それが、保守派と進歩派、つまり上座部と大衆部の根本分裂となりました。
釈尊の時代に比べ、貨幣経済が目覚ましく発展して、お布施をお金でもらうことも都市部付近では増えてきたのです。
その時代と今を比べると、さらに、経済から環境からすべて違います。
釈尊の時代のように、その日に食べる食物だけを托鉢して修行に励むというスタイルは無理です。

また、日本のように、僧侶がひとつの職業となって、葬式で稼ぐというスタイルはもともと釈尊の真意からかけ離れたものです。

私の理想は、一度、日本の仏教をリセットして、根本から出家制度も変えたほうがいいと思っています。
古くからのインドの考え方に、人生を、学生期、家住期、林住期、遊行期の4つに分ける考えがあります。
私はこれが理想です。

【学生期】を経て、仕事や家庭を持って一生懸命に財を稼ぎ【家住期】、その財で死ぬまで生活できるくらいになったらリタイアして隠遁して修行生活に入り【林住期】、修行がある程度完成したら遊行に入る【遊行期】、というスタイルが理想ですね。

人間は最初から出家するよりは、社会生活したほうがはるかに修行になると思います。

釈尊の時代のように、その日その日の食べ物を托鉢して命を保つという方法では、かえって、修行に専念できないでしょうね。

私の理想である、学生期、家住期、林住期、遊行期の4段階であれば、出家も在家も区別はなくなります。
誰にも迷惑かけずに生活できるようになったら林住すればいいので、修行にも専念できるでしょうね。

 

 

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<<ブラフマビハーラが、最高位の生命の住するところ、というのはまだ納得しやすいのですが、涅槃の境地にビハーラつけていいのかどうか、、、
ブッダが涅槃に住んでるかんじにならないかなぁ>>

viharaの意味は、おっしゃるように、【住処】です。
パーリ語辞典では、『住処、精舎、寺』となっています。

brahmaviharaは、brahmanの住処です。

brahman梵天とされ、後世の位置づけでは、色界の最下層(初禅)に住むとされましたので
brahmaviharaは梵天の住所、つまり色界最下層となってしまいました。

brahmanは、仏陀在世時には、インドの人々に、宇宙の根源、存在の本源、究極の実在とされていました。
その時には、brahmaviharaは、究極の境地、最勝の境地を意味したはずです。

『先行研究はvv.151f. について、ここでのbrahmavihāra は涅槃の境地を表すとか、
 涅槃を直接実現する実践であると解している。
 例えば中村1956 :pp.40f. (=中村2010 : p.52)は、
「もともと崇高なる境地(brāhmī sthitiḥ)とは、
 仏教外では、最高の境地、解脱の境地を意味していたのであるから、
 仏教においても最初期には恐らく究極の境地を意味していたのであろう」と述べている。』
と書いてある著作もあります。

ただ、私は、中村元の「四無量心は本来、涅槃を実現する実践であったが、後に生天をもたらすだけ のものとなった」という説とは違い、
brahmavihara=梵住=四無量心 は、涅槃を実現するための実践や瞑想方法ではなく
涅槃の状態そのものと考えています。

 

 

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<<ショーシャンクさんが前に書かれてた、仏教の全否定のあと、全肯定になるんじゃないかと思ってる、みたいなコメント思い出します。(誤解してたらすみません)>>

はい。そう言いましたし、いまも強くそう思っています。
私の中では、四諦、八正道、十二縁起、四無量心という仏陀の最重要キーワードが解決しましたので
これからはもう論議は不要で、戯論に赴く必要もなくなりました。
十二縁起の瞑想の実践をするだけです。このスレも閉鎖してもいいくらいです。

そして、仏陀の真意から全仏教を見直していく作業になると思います。

 

 

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たーぼーさん、こんにちは。
<<十二縁起の瞑想しますが、しっかりやりたいので少し時間ください。>>
瞑想するのに、別に誰の許可も要りませんよ(笑)
ただ、十二縁起の瞑想をするには、十二縁起がはっきりと解明されて
その一つ一つが具体的にイメージされないと、瞑想にはなりません。
核心に関わる具体的なことは掲示板では書きません。
最初からずっと(主に一人だけでしたが)アラシが徘徊して一人で大量の投稿で埋め尽くし
意図的に妨害していましたから、そのような環境では核心部分は明かせるわけはありません。
自費出版で書きます。

といっても、それより前に、その十二縁起の瞑想で中心を滅することができるかどうかにかかっています。
見性しただの、悟っただの、救われただの、バーチャルはもううんざりなので
実際に無量に行き着くかどうか、だけです。

 

 

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赤い実さん、こんにちは。

<<ショーシャンクさんは、十二縁起の瞑想というのを、具体的にはどのように、また、いつ(一日のうちのいつ頃の時間であるかとかいうことです。 朝であるとか夜であるとか。 毎日なのか毎日ではないのか、など。)されているのですか?>>

私は、ずっと朝晩に読経はしていて、それは1日も欠かしたことはありません。
十二縁起の瞑想は、その読経の後にするようにしています。
ですから、毎日2回はしてます。
朝は6時くらいが多く、夜はできる時間に、という感じです。
読経の時は正座、十二縁起の瞑想の時はこだわりませんが、半跏趺坐が多いです。

 

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こんにちは。
どんなに健康そうに見えていた人も、病み、老い、滅しますね。
私も今までは幸い、持病もなく入院したことも一度もありませんが
今日明日どうなるかなんて誰にもわかりません。事故もありますし。
健康なうちに精進しなければと思いますね。
株で会社を立て直そうとしていた時は、四六時中、株と為替のことばかりを考えていて
日経新聞も隅から隅まで熟読してましたし、国内や海外ニュースもチェックしてましたので
時間的な余裕はありませんでした。
精進できる環境にはなってきたので、頑張りたいとは思っています。

 

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<<日本の天才子役の演技にわざとらしさがあって、アメリカの子役のような自然さがないのは、自分を客観視するもう一人の自分が常に蝿のように自分の周りを飛んでいるからではないでしょうか。>>
たーぼーさん、おはようございます。
映画作品の話そのものでないので、こちらで答えたほうがいいと思いますが
日本人の演技が国際的には高い評価を得られず下手なのは
第一には感情の表現をすることそのものが悪いこと、恥ずかしいこととする歴史的な風土があるからだと思います。
また、他人から見てどう思われるかばかりが価値基準となっているという理由もあるでしょう。
アメリカ人は小さい時から、主体的であることが尊重され、自分の感情や主張を表現することが大切にされています。
日本は『恥』の文化ですから、他人さまから見て恥ずかしくないように行動することが求められます。
他人の目が絶対神の役割をしているのです。
無数の他人の目に沿うような行動を強要されている以上、主体性は確立されません。
常に他人の目を気にしなければいけない圧力下では、自分の感情を素直に表現する文化は生まれず、表現してもわざとらしくなるのだと思います。

 

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はじめまして。
その文章は私が書いたものではありません。
その内容にも同意したことはありません。

私は、<<四諦八正道などの簡単な話>>などと思ったことは一度もありません。
何度も言ってますが、四諦八正道は、人類が正しく理解できなかったくらい難解だったと思っていますよ。
それは四諦の根本『苦諦』が理解できなかったからだと考えています。
それは内容の難しさではなくて、視点が全く違うからだと思います。

<<理解できない無明に覆われた汚れた業深き凡夫ばかりです>>という言葉も、たぶん、その人は、自分はそうでなくて他の人は凡夫と言いたいのでしょうけど、私は自分が卑小な人格、卑小な精神だということを洞察していますから、自分も業深き凡夫の一人と思っています。

<<彼らにはその場しのぎの外道のオレオレ嘘方便教で充分>>というのが何を指しているかがわかりませんし、私は『外道』という言葉で、仏教が仏教以外を貶したことは仏陀の真意から離れた原因だと思っています。
これもこのスレに何度も書いています。

このように、私の主旨とは全く違います。

 

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たーぼーさん、こんにちは。
私もずっと日本の精神文化や伝統を賛美してきました。
ただ、去年の夏、株式投資でEV(電気自動車)テーマの大相場を予見した際
はっきりと日本の近未来が見えたことと、映画『沈黙』によって
一方的な日本賛美からは脱却しました。
日本に欠けているところも見えてきた感じです。
武士道の極みとされた忠臣蔵なんかもすごく好きでディスクも集めていて
12月に入ると必ず見たりしてましたが。

十二縁起に関しては、愛(渇愛)を滅するのも、究極には無明を滅することによると突き止めたことが大きく、それが十支縁起や五支縁起などと違い、完成形である所以だと思います。

 

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<<学生の頃に、仏教に強い興味を抱かれて、仏典を読まれるようになられた切っ掛けは何だったのでしょうか?>>
きっかけは何もありません。小さい時から仏教にはなぜか強く惹かれていました。
家族や親せきなど周囲は商売人ばかりで、精神的なものや宗教的なものとは無関係の環境でしたし、家は代々神社神道なので、仏教的なものは何一つありませんでした。
しかし、何故か、お釈迦様には強く惹かれていました。
たぶん、魂の傾向性なのでしょう。
高校の時も禅などの仏教書ばかり読んでいましたね。しかし、これは決定的に悪かったと思っています。
この世の価値観の否定になってしまって、いい大学に行ったり出世したりお金儲けすることを煩悩や執着として否定的に見るようになったため、努力する原動力を失ってしまって、無気力に過ごしてしまいました。
大学は文学部などは許されなかったので、親の勧めにしたがって法学部に行きましたが、法律などの世俗のものには全く興味を持てませんでした。
法律に興味を持ち出したのは、社会に出て自分でいろいろ出店して様々な人と交渉したりするようになって、法律の知識や実務能力がこの世では絶大な力を持つことが分かり始めてからです。
大学の時は、インド思想などに触れて悟ったような気にもなっていました。前掲の詩などを書いていた時です。

高原さんのように『青年時代など煩悩まみれの、欲望を生きる意味のようにさえ考えていた』というほうが絶対にいいですね。
あまりに若い時に、禅などの思想にかぶれてしまうと、欲望否定となってこの世を十全に生きることができません。
また、今のようにネットでありとあらゆる情報が手に入る時代であれば、仏教の本質もわかったでしょうけど。

 

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