仏教についてのひとりごと 86

<<抵抗していなければ、仏陀になれていましたか?>>

質問の意味がちょっとわかりません。
『抵抗』という言葉を使ったことはないので、ここでいきなり『抵抗していなければ、仏陀になれていましたか?』と聞かれても、何に対して抵抗しているということなのかわかりません。

抵抗とかではなく、人間は個体を持ち五官を持った時点から苦の集積へと向かっているのです。
それはまさしく、激流であり、万力のようであり、超えがたい汚泥なのです。
これに気がつかないうちは、そこを苦とも思わず、そこから離れようとも思わないのです。

あるがままでいい、とか、すでにすべては救われているんだ、とか、そういう言説は好まれますし蔓延していますが、これを知った人はそういう言葉がいかに危険かがわかるのです。
激流に流されていることに全く気がつかないで、『このままで救われている』と考える人がいかに危険か、です。

 

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三島由紀夫に関しては全く詳しくないので、ただの私の仮説にしか過ぎませんが
やはり、大きな挫折体験=自己重要感の毀損 があったと思っています。
秀才ほど全能感で生きていますから、挫折体験はその心を損ないます。

三島由紀夫は、昭和とともに生きたので、思春期と青春期は戦争の時代でした。
国家に自己同化、自己投影することを強制された時代ですから
三島由紀夫も国家に自己同一化して全能感を抱いたでしょう。
そして、全能感から信じていた神風が吹くこともなく敗れ去ります。

それはこの三島由紀夫の言葉に現れています。
『奇蹟の到来を信じながらそれが来なかつたといふ不思議、いや、奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議といふ主題を、凝縮して示さうと思つたものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題になるものだ。人はもちろんただちに、「何故神風が吹かなかつたか」といふ大東亜戦争のもつとも怖ろしい詩的絶望を想起するであらう。なぜ神助がなかつたか、といふことは、神を信ずる者にとつて終局的決定的な問いかけなのである。』

天皇アメリカによって人間宣言し、自衛隊アメリカが作った憲法によって軍隊ではないものとされた、という憤慨が、かれの挫折体験からどんどん増幅していったと考えます。

結局、かれの最期は、挫折体験から来る自己重要感の毀損を挽回する試みだったと私は解釈してます。

 

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三島由紀夫を読み解くのであれば、『海と夕焼け』が鍵になると思います。
前に挙げた文章はそのあとがきです。
彼は、純粋に神風が吹くものだと信じていたと思います。
しかし、結果は完全な敗戦、そして天皇人間宣言、軍隊の否定、という、たぶん三島にとっては大きな挫折と屈辱を味わったのではないでしょうか。
最期の自衛隊での演説では、三島は、自ら神風を吹かしたかったのだと思います。
しかし、自衛隊員は罵声を浴びせるだけでクーデターに同調するものはいませんでした。

三島由紀夫の突出した才能を考えると、本当にもったいなかったですね。
作家は晩年になればなるほど名作を生み出すものですから
あんなことをしなければ、それからの数十年の人生で日本を代表するような名作が生まれたはずです。

思想や信条の怖さ、自己同化の怖さを感じます。

 

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三島由紀夫は、20歳で死んでまた生まれ変わって、また20歳で死んでまた生まれ変わる、というのを理想としたのかもしれないですね。
唯識論には傾倒したようですが、それは輪廻転生を説明する理論として好んだのかもしれません。

三島の時代には、仏陀直説の原始仏教はポピュラーでなかったですし、長らく五時教判などで軽視されてきましたので、三島は仏陀の言葉を真剣に学んだことがなかったでしょうから、
もし触れていれば自己イメージを苦として捨てることもできたのではないかと思ってしまいます。

それを考えると、文献学の発展により、どれが歴史上の仏陀の肉声に近いのかがわかってきた今は有り難いと思います。

 

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たーぼーさん、こんにちは。
神通力などは全くなく、才能や能力、肉体なども普通の人よりずっと劣っていますよ。
謙遜とかではなく客観的に見てそうです。
ただひとつ、いまは、自分をごまかさないようにしようとは思います。
私は高校の時から禅や大乗仏教の本を読んでいましたから
悟った気分になったりしたのですが、そのようなごまかしはやめようと思っています。
禅語をかじったり、盤珪親鸞をかじったりすると、悟った気分になったり二元対立を超越した気分になったりするものです。
しかし、バカにされたら怒る自分は何も変わらないですし、二元対立を超越などしてもないのに、バーチャル悟り、悟り気分を味わっていただけです。
お酒を飲んでいい気分になるのと何も違わないのです。

仏陀が言うように『影がそのからだから離れないように福楽がその人につき従う』ようにならなければ何もなりません。『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される』のですから、心が無量になれば、現象にも無量が現れなければ、それは本物ではありません。人格も、卑小性から無限性へと、変貌しなければ本物ではありません。

私の現象にはまだ無量は現れていないですし、人格も卑小なままですので、これから、四諦十二縁起によってどのように変貌するかをかけています。

人格も卑小なまま、現象にも大自由が現れずに困窮していて、坐禅や瞑想、念仏をして悟った気分になっている人がいかに多いか、です。
『ありのままでいい』とか『煩悩即菩提』とか、自分の人格が卑小なままでいることへの言い訳、ごまかし、装飾の言葉はもううんざりなので、そこはごまかさずにいようとは思っています。

 

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