仏教についてのひとりごと 81

<<自分の中から、すっかり綺麗に我をなくしたい、
<<と思うことももしかしたら我なのではないか、という気がするのです。>>
<<人として生まれれば我はつきもので、それをうまく調節して生きていく>>
<<(多少あってもそれはそれとする)という生き方が、釈尊の教えるところであったのではないか、<<と思うのですが・・・。>>
<<それが中道ということではないのかな、と>>

大乗仏教からすると、そういう考え方になるかもしれません。
煩悩をすべて滅却するのが小乗、大乗は煩悩即菩提などと言いますね。
しかし、仏陀の真意を探求してくると、今までの仏教とは全く違う感じがしています。

中心を持つこと自体が苦だとわかること、これがすべてです。
すべての人は『矢』に射られているのだという事実に気づくこと、
そして、その矢を抜くことが仏陀の真意です。
『我』というものが悪いものだ、それをなくさなければならない、ということではないのです。
まず、『苦』を観ること。
そして『苦の原因』を滅すること、これが仏陀の説いたことです。

仏陀が言う中道とは八正道のことです。
仏陀が『中道とは八正道のことである』とはっきり言っています。
川が海に流れ着くように、八正道によって苦の消滅、涅槃へと行き着くと
仏陀は言っています。

足に矢が刺さったら、あまりの痛さに、その矢を抜こうとするでしょう。
『その思い悩むことじたいがまた我なのではないか』と思って
矢を放置するでしょうか。

『苦』ということが本当にわかった人は抜かないままにしておくことはできません。

 

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<<ただ、率直に思うのは、八正道をものすごく厳格に行うとしたらですがが、>>
<<中道の意味するものから逆にはずれてしまわないかと。>>
<<極端に走ってしまわないかということです。>>

八正道は、今まで解釈されてきたような、『八つの道徳項目』でも『八つの倫理規定』でもありません。
仏陀が言うように、川が大海に流れ込むように、大海へと至る道です。
肉体の快楽を追い求める極端と苦行によって肉体から厭離させようとする極端の両極端から離れて中道すなわち八正道を説いたのであって、
快楽と苦行との中間を中道と言ったわけではなく、ほどほど快楽ほどほど苦行の中途半端な状態を中道と言ったのではありません。
あくまでも、仏陀の言う中道とは八正道のことです。
これまで、八正道=中道も正しく解釈されてなく
ただの道徳のように捉えられていますが、全然違います。
つまり、八正道とは『正しいこと』をしなくてはいけない、正しいことをしない自分を責めてしまう、というようながんじがらめの倫理規定とは全く異なるものです。

 

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<<その、発生してくる、ということそのものを、我であると考えることが我であるのでは?、>>
<<と思ったのです。                        >>
<<玉城氏というのも、もしかしたらですが、そのあたりまで厳格に自分を縛ってしまったのかな、と。
<<ショーシャンクさんも、そういうことってないですか?>>

自我で自我を見つめて後悔する、というのは最悪です。
『なんてこんなにみにくい自我があるんだあ!』というような嘆きや自責の念からは解放は生まれないでしょう。
倫理道徳に縛られた人は精神ががんじがらめになって自由ではありません。
そうではなく、自由な境地から見つめると、いかに縛られて苦であるかがわかるのです。

例えば、生まれた時からひもで縛られている人があってその人はひもの長さの範囲しか動けません。
それを当然と思っていれば苦ではないのです。
しかし、いったん、ひもがなくなった状態を経験すれば、またひもで縛られた場合、とんでもなく苦痛に感じるでしょう。

ひもが悪い、とか、ひもに縛られている自分が悪いと考えるのではなく
縛られていること自体が苦に感じるので、ひもを解こうとするでしょうね。

中心を持つということはひもで縛られている杭があるということです。

 

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<<やはり、釈尊の教えを継承して発展させたのは、龍樹の「空」になるのかな、ということです。<<このあたりは、ショーシャンクさんとは真っ向違うところですね>>

人は自分の確信を持ったところを進んでいくしかありません。
人それぞれ考えることは違って当然です。

自分でも自分が解釈する仏陀の真意が正しいか間違ってるかなんてわかりません。
ただ、自分の中では確信ができつつあるということだけです。

 

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