仏教についてのひとりごと 31

<<苦、と訳されてる原語『dukkha』の成り立ちが、『du(価値がない、賤しい、評価に値しないという意味の前置詞)+kha(からっぽ)』から成り立っていると解説されている方がいるという話をしています。>>

日本テーラワーダ協会のスマナサーラですね。

そもそも『kha』という語自体、仏陀の死後ずっと後世になって初めて現れた言葉です。
後期の上座部論書の清浄道論において、dukkhaをduとkhaに分解して解釈してからです。
それまでのどの経典にも『kha』という言葉はないはずです。

なぜわざわざ言葉を作ったかというと、dukkhaを苦とすることに非常に抵抗を感じたのだと思います。
人生には楽も苦もあり『一切皆苦』なんてあまりにも現実に即していないという批判があったからです。

私が言っているのはこれです。
人類は仏陀が言ったdukkha=苦が理解できなかったため、無理矢理解釈を捻じ曲げたということです。

 

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『清浄道論』(Visuddhimagga)は5世紀くらいに書かれた論書です。
ですから、仏陀の死後1000年くらい経っていますね。

詳しく言うと、そこにこのような記述があります。

『ここにduという音は嫌悪するものに付せられる。実に嫌悪されるべき子を人々は悪い子という。次に、khanの音は、空虚なものに付せられる。実に空虚なる虚空はkhanという。
この第一の諦は、多くの災難が生じるところであるから、嫌悪せられ、愚人が思惟する常楽我浄の性質がないから空虚である。ゆえに嫌悪せられたるが故に、また空虚の故にdukkhamと言われる。』

この5世紀の論書を基にスマナサーラは、『dukkhaは苦という意味ではなく、空しいということ。』と書いているのです。

 

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<<『すべての形成されたものは苦である。』
ショーシャンクさんは、この『苦』の定義をどうされますか?>>

dukkhaは、苦、苦しいこと、苦痛、ということ以外にはないですね。
もっと言えば、激痛ですね。
苦には肉体的な苦痛もあれば、精神的な苦痛もあり、そのどちらもですね。
精神的な苦痛の場合は、苦痛をもたらす、あるいは苦痛であるすべての感情です。

スマナサーラが言う『dukkhaとは苦という意味でなくて、空しいという意味』というのが
全くの間違いであるのは、原始仏典からもはっきりしてます。

スマナサーラ四諦の第一である苦諦のdukkhaについてそう言っているわけですが
仏陀が言った言葉は、
『比丘たちよ、ではわたしはなにを説いたか。比丘たちよ、<こはdukkhaなり>とわたしは説いた。<こはdukkhaの生起なり>とわたしは説いた。<こはdukkhaの滅尽なり>とわたしは説いた。また、<こはdukkhaの滅尽にいたる道なり>とわたしは説いた』
『こはdukkhaである。生まれるのもdukkhaである。老いるのもdukkhaである。病気もdukkhaである。死ぬのもdukkhaである。愛するものと別れるのもdukkhaである。憎むものに会うのもdukkhaである。求めるものが得られないのもdukkhaである。総じていえば、5つの要素の集合がdukkhaである。』
と言っているのです。
このdukkhaに『苦』以外の訳を当てても意味が通じないのです。


dukkhaは『苦』以外にはありえないことはこれでいいですか。
次は最も重要な無我です。
仏教は無我の教えと言われてきました。
無我、つまりアートマン=我 の否定ですね。
これを仏教徒たちは信じてきました。

それでは、仏陀の言った言葉
『実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分を整えよ』ダンマパダ380。
この自己とは何でしょうか。

 

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今は手元にないので引用できませんが
スマナサーラはいたるところで、『dukkhaとは苦という意味で捉えてはいけない』と繰り返し
書いています。
『苦の見方』とかにも書いてあるでしょうね。

スマナサーラ講義から引用すると
「dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。分析しますと、まず「du」という語は、場合によって意味が変わってきますが、この場合「無価値・たいしたことがない」という意味で使われます。〜中略〜「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。」

「「kha」の前に「du」をつけた「dukkha」を単純な日本語でいいますと、「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味になります。ですから「一切のものは苦である」ということは「一切のものは無意味で、気にするものではない」という意味になります。」

h ttp://www.j-theravada.net/kogi/kogi157.html

日本語で『苦』と訳すのと『空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない』と訳すのでは全く意味が違いますね。


もし、スマナサーラ
『楽は、新しい感覚により、他のかつてあった古い苦がなくなったからその分を楽に思うだけで、その感覚がずーっと続くと苦そのものの感覚でしかなくなる、つまり、感覚はすべて苦なんだ』
などと言ったとすれば、それは正しいでしょうか?

心地よい感覚、快楽となる感覚はありますよね?
それは、古い苦がなくても心地よいものではないですか?
あなたが快楽の感覚を味わうとき、古い苦が必要ですか?
古い苦の消滅だから快楽なのではなく、古い苦などなくても快楽なのです。
この人はあまりにも何もわかっていない。

仏陀が『一切の受(感覚)は苦だ』と言ったのは、第一義的には無常で滅に向かうからです。
ずーと続かないから苦なのです。
スマナサーラの言ってることは反対ですね。

 

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<<普通に、現象として生じてる自分でいいんじゃないでしょうか?>>

現象として生じている自分とは、迷いの自我、無我なのに我があると思っているものですよね?
仏陀が『実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。』と言ったとき
自分の主である『自己』が迷いの自我のことでしょうか。
そのような自我は主としてはいけないものですね。

 

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dukkhaが、スマナサーラが言うような「空しい・無意味でどうということはない・気にすることはない」という意味では絶対にないのは、様々な仏典から明らかです。

仏陀は、dukkhaを滅する道を探すために命がけで修行しました。
そして、仏陀は発見し、dukkhaを滅する道として八正道を説きました。
dukkhaが「無意味でどうということはない」「気にすることはない」というような意味であれば、それを滅するために命を懸けるでしょうか。

また、スマナサーラが「dukkhaという語は、注釈書では「苦しい」と訳されていません。分析しますと、まず「du」という語は、場合によって意味が変わってきますが、この場合「無価値・たいしたことがない」という意味で使われます。〜中略〜「kha」の前に「du」をつけることによって、「kha」の価値をなくしているのです。「kha」の意味は「空」で、からっぽという意味です。」と書いたのであれば、そもそもその意味になることがおかしいのです。
khaが「空」「空っぽ」という意味で、duがその否定であれば、「空という価値のある状態ではない」という何ともわけのわからない訳となるはずです。


仏陀ははっきりと
『こはdukkhaである。生まれるのもdukkhaである。老いるのもdukkhaである。病気もdukkhaである。死ぬのもdukkhaである。愛するものと別れるのもdukkhaである。憎むものに会うのもdukkhaである。求めるものが得られないのもdukkhaである。総じていえば、5つの要素の集合がdukkhaである。』と言っています。
dukkhaの例を挙げているのです。
このdukkhaのところに、「無意味でどうということはない」「気にすることはない」という訳を当ててみてください。
それがいかに馬鹿馬鹿しいことであるかわかるはずです。
気にすることはないのであれば滅しようとすることもないではないですか。

いま原始仏教を学ぶものはみんなスマナサーラの著作を読んでいますが、そこまで原始仏教を主導するものでさえ、dukkha=苦 を理解できていないのです。
私はやはり、人類には仏陀の真意は理解できなかったと思っていますよ。