仏教についてのひとりごと 30

pipitさん
こんばんは。

dukkhaは、まさしく、『苦』という意味です。
パーリ語辞典でも『苦なる』『痛苦なる』とあり、一部の人が言っているような『空しい』『空虚』『無価値』などという意味はありません。

なぜdukkhaを『苦』という意味でないと言い出す人が出てきたかと言いますと
人類は仏陀の言う『苦』を理解できなかったからです。
特に西洋で原始仏典が知られるようになり『一切皆苦』という言葉が伝わると
西洋人は『なんて仏教というのはペシミズム(悲観主義)なんだ!』と言い始めたのです。

そこで、まずそのイメージを払拭させるために、
ワールポラ・ラーフラがその著作『ブッダが説いたこと』で
『dukkhaを苦と訳した、その不適切で安易な訳語とその表面的解釈が、多くの人に仏教は厭世的だという誤ったイメージを持たせることになった』
『dukkhaは、一般的には、苦しみ、痛み、悲しみ、みじめさを意味するが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさといった意味がある』
と書いています。
この著作は世界でよく読まれたので、日本テーラワーダ協会も、dukkhaとは苦ではない、空しいということだ、と言い出しています。

しかし、それは全くの間違いだと断言できます。
pipitさんが挙げられた『苦苦・壊苦・行苦』の言葉からもそれはわかります。

『dukkha(苦)、dukkha(苦)と仏陀は言われますが、dukkhaとは何ですか?』
『人生には苦も楽も非苦非楽もあるのではないですか?』
の答えが
『苦苦・壊苦・行苦』です。

つまり、人生には、苦受=苦しい感覚 の時もあれば
楽受=快楽の感覚 もあれば、非楽非苦受=苦でも快楽でもない感覚 もある、
なのになぜ、すべてdukkhaと言われるのか?
という質問です。

このことからしても、dukkhaは苦以外のどのような意味でもないことが分かります。
そのうち、苦苦の原語は、dukkhadukkhata です。

dukkhaが『空しい』という意味では、上の文章は意味が通じません。

 

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その通りです。

苦受は、そのまま苦です。ですから苦苦ですね。
楽受は、楽をもたらす対象が壊れていく、なくなっていくときに物凄い苦を感じますね。
だから壊苦です。
非楽非苦受は、時が流れていくにしたがって苦に変化します。
すべてのものは滅に向かっていますからね。
だから行苦です。

ただ、今はそれを言いたいのではなく
dukkhaが苦という意味か、空しいという意味か、です。

dukkhaは、『苦』以外の何物でもありません。
『苦』の意味が理解できないからといって、dukkhaは苦という意味でなく
空しいという意味とか言っている人はどんなに権威があっても
全くの間違いだと私は断言します。

 

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仏陀の言う『一切皆苦』は嘘、などとは一切言っていません。
ちまたで言われている『「苦」とは思い通りにならないこと』という解釈がでたらめだといっているだけです。

人類は、dukkhaが理解できなかったから、dukkhaとは思い通りにならないこと、などといい始めたのです。
苦とは思い通りにならないことであれば、人生において思い通りになる比率が大変高い人は苦が少なく楽が圧倒的に多いと言えますね?
少なくとも楽の方が圧倒的に多いのですから、『一切皆苦』ではないですね。

と言っただけです。
要は、『dukkhaとは思い通りにならないこと』という解釈に反論したのです。

 

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一切皆苦』の仏陀の言葉は原語では
sabbe sankhara dukkha.
です。

sabbeは、『すべての』『一切の』という意味で
sankharaは、『行』『有為の法』『事象』という意味です。
『行』とは、形成作用、または潜在的な形成力と訳されます。
ゆえに、中村元は、
『一切の形成されたものは苦しみである』と訳しています。
これは正しい訳だと思います。

これを歴史上、『人生はすべて苦しみである』と訳してしまったために
全く仏陀の真意とはかけ離れたものになっていったと考えています

 

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