仏教についてのひとりごと 20

>>「なんで娑婆世界が泥沼なのか?この世は辛いことも楽しいこともある、その人の生き方次第。泥沼ではない」と思っている人の方が多い。>>

そうなんですよね。
仏陀のいう『苦』が人類にはどうしても理解できなかったと思います。
正確に言うなら『形成されたものはすべて苦である』という言葉が理解できなかった。
もちろん、人生には楽しいこともたくさんあるからです。
楽しいことだらけという人もいるでしょう。
お金はたくさんあって、異性にはもてて、健康で、誰からも尊敬される、
そんな人も多くいるでしょう。
それなのに、『すべては苦である』って、おかしいですよね。

ゆえに、dukkhaは『苦』という意味ではない、という人が多くなってきています。
テーラワーダ教会もそういう解釈です。
人生はすべて苦だ、などと言ったら、仏教はなんてペシミズムだ、
と(実際に西洋人から)批判されてきましたから。


しかし、私はdukkhaは苦以外のどのような意味でもないと思っています。
無理に他の解釈をするのは、仏陀を理解できないためのまやかしです。
自分で勝手に思っているだけですが。

 

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死について真剣に考えることというのは時に悟りに導くことがあるらしく
死刑囚の中には悟った人もいますね。

私はこの世が汚泥そのものだと思いますし
生まれている人は100%、汚泥にズブズブになっているのです。

スッタニパータに
『わたくしは、牽引するもののことを貪欲、物凄い激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、
はからい、捕捉と呼び、超えがたい欲望の汚泥であるともいう。』とありますように
ものすごい激流で、そこに巻き込まれていない人などいないでしょう。
仏陀も汚泥にまみれた生活をしていました。

このような汚泥である娑婆世界で悟りを得ることを、蓮に譬えたのでしょうね。

 

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はじめまして。

>>「生」は「苦」(生への執着)の上にかろうじて成立するもので、
「生きられる」のは、「生への執着」(苦)のおかげであると>>

そうですね。
実際、四諦
①人生は苦である
②苦の原因は執着である
③執着をなくせば苦もなくなる
④苦を滅するには8つの実践項目がある
と、表面的に解釈している人は、間違っていると思います。

誰も、人生の目標に執着するから、その目的を達成することができるのです。
スポーツ選手は金メダルや勝負に執着するから厳しい練習にも耐えられるのです。
ごく簡単に「執着をなくせば苦がなくなる」などという人は全くわかっていない人です。
執着をなくしても、病気の苦は厳然とありますね。
怪我をしたら痛い、この苦が執着をなくしたらなくなるでしょうか。

実際、あなたの言うように、生、人生は執着の上に成立しています。

さて、これからが重要です。
仏陀はなぜ、人類に理解されなかったのでしょうか。
キーワードは「顛倒夢想」で、われわれと仏陀は全く逆の見方だからです。
仏陀ニルヴァーナから説いている。われわれは地上しか知らないのです。

故にスッタニパータに
『自己の身体を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。正しく見る人々のこの考えは、一切の世間の人々とは正反対である。』
『他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解しがたき真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。』
とあります。

ここは非常に重要なところで、あまり安易に言うと、大きな誤解が生じますから
慎重にならざるを得ないのです。
身体を断滅することが「安楽」なら、自殺や殺人が肯定されてしまいますよね。
誤解が生じると大変なことになります。

 

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【『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたしは説かない。『教義がなくとも、学問がなくとも、知識がなくとも、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。】

ースッタニパータ第4章より


これは凄い言葉ですね。
今までの仏教の概念を吹き飛ばすものがあります。

最古層の仏典スッタニパータは、仏陀の肉声に最も近いものですが
今までの仏教学が仏教と思っている人は受け入れられないでしょうね。

 

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スッタニパータはこの世で最も仏陀の肉声に近い最古層の仏典ですが
スッタニパータを深く読めば読むほど、
人類は仏陀の真意を捻じ曲げていったのではないかと思えてなりません。

それは仏教教団というものが成立した途端からでしょう。

仏教は一度スッタニパータに還らなければならないのではないでしょうか。

スッタニパータに
『わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。』と書かれています。

ということは、仏陀も筏で激流を渡ったということです。
激流を渡ってもおらず彼岸に到着もしていない我々には、筏が絶対必要ですが
仏教はその筏を捨ててしまった。
ですから、誰もどこにも行き着かないと考えます。

 

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昨日(土曜日)の日経新聞の書籍広告に
ブッダはダメ人間だった』ー最古仏典から読み解く禁断の真実
という本がありましたので、早速Amazonで注文しました。

この広告の中の言葉だけで、何を言おうとしているかはほぼわかります。
そしてそれは間違いでしょうね。

本文より抜粋で
ブッダの死から仏典成立までには数百年のロスがあり、仏典の中にバラモン教ジャイナ教の教えが紛れ込んでいることは、仏教史研究家の間では知られたことでした。
しかし、後世の僧侶たちは、「仏典からバラモン教の教えを取り除く」という作業は決してしませんでした。
なぜなら、もしそれをすれば僧侶たちにとって不都合すぎる「ブッダの恐ろしい教え」が、あぶりだされてくるからです。』
とあります。

これは、事実とは全く逆です。

私の研究によると、仏陀は仏教などというものを作る気はありませんでした。
仏陀は、『私は、過去の諸仏が見つけた、古城に至る古道を見つけただけだ』と言っています。
そして『私が存在しても存在してなくても、古城に至る古道は厳然と存在する。』とも言っています。

仏陀は、バラモン教が起こったフィールド、ジャイナ教が起こったフィールドと同一のフィールドから出発しています。
しかし、仏陀の直弟子以降、仏教者はすべて、『仏教という独自のもの』を確立させようと全力を挙げてバラモン教の要素やジャイナ教や他の教えの用語などを排除していったのであって、この本がいうように『後世の僧侶たちは、「仏典からバラモン教の教えを取り除く」という作業は決してしませんでした。』というのとは真逆です。

その証拠に、最古層のスッタニパータなど古層の仏典には、仏陀のことを『ヴェーダの達人』とか『偉大な仙人』とか『バラモン』などと呼んでいます。
しかし、後世の仏典にはそのような用語は一切出てこなくなります。

ここは、『仏陀は本当は何を言いたかったのか』を解明するうえで、非常に重要なポイントです。

本が来て読み終えたら、また書き込みます。