「仏教の思想的立場は無我説と呼ばれているが、それは決してアートマンを否定したものではない。
客観世界に見出されるいかなる実体もアートマンではない-非我-ということを主張したのである。
アートマンが実在するか否かということについては、釈尊は全く沈黙を守っていた。
だから仏教を無霊魂説と解するのは誤りである」
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仏教学者松本史郎は、その著書『縁起と空』の中で
スッタニパータをはじめとする初期経典から多数の用例を引いて、いかにアートマンが積極的に説かれているか示しておられる。
しかも、中村元博士はじめ、これまでのほとんどの仏典編纂者・翻訳者・研究者は、赤裸々な我論をこのままではまずいと(無意識的に)包み隠すような操作を続けてきたという。
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非常に重要な指摘です。
中村元の訳文でさえ、最古層の仏典に頻繁に出てきているアートマンやブラフマンという言葉を
そのままアートマンとかブラフマンと訳さずに、隠して訳してきたということです。
確かに、私も、スッタニパータなどを読むと、そういう印象は強く受けます。
今まで仏教学者は、仏典にアートマンが肯定的に言及されるところを隠してきたのですよ。
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スッタニパータをはじめとする初期経典において、いかにアートマンが積極的に説かれているか、という事実を示したのですよ。
それは認めますね?
そして、松本史郎が書いているように
『中村元博士はじめ、これまでのほとんどの仏典編纂者・翻訳者・研究者は、赤裸々な我論をこのままではまずいと(無意識的に)包み隠すような操作を続けてきた』という事実も認めますね?
そして、松本史郎が著作の中で書いている、初期仏典に
『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
ブラフマンとなったアートマンによって住する』という文章が存在することは認めますね?
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つまり、スッタニパータをはじめとする古層の仏典には
アートマンが否定されるどころか、アートマンもブラフマンも頻繁に肯定的に書かれているという事実を示したのです。
これは、画期的な事実です。
また、松本史郎だけでなく、他の仏教学者も、古層の仏典にアートマンが肯定的に書かれているという事実は指摘しています。
仏陀がアートマンを否定したという説はこれで間違いだと言えるわけです。
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仏陀が、アートマンやブラフマンを否定したことはただの一度もありません。
仏陀がアートマンを否定したと言うのであれば、パーリ語原典で示してください。
示すことができないですね?
それどころか、仏陀は
『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
ブラフマンとなったアートマンによって住する』
と言っています。
自らを、ブラフマンとなったアートマンによって住すると言っているのですよ。
また『アートマンを尋ね求めること(attanam gaveseti)』を青年に勧めています。
仏陀がアートマンを肯定していたことを、私はこれで証明しました。
もし、あなたが、あくまでも、仏陀はアートマンを否定したというのであれば
アートマンを否定しているパーリ語原典を必ず示してくださいね。
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おはようございます。
<<それどころか、仏陀は
『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
ブラフマンとなったアートマンによって住する』
と言っています。
この根拠となる原文(または原文だと思われるもの)を教えていただけますか。>>
『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
ブラフマンとなったアートマンによって住する』
のパーリ語原文はこれです。
ditthe va dhamme nicchato nibbuto sitibhuto sukhapatisamvedi
brahmabhutena attana viharati .
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あなたは、
諸法無我=アートマンの否定 と断定していたのですよ?覚えていますか?
ですから、私は、仏陀はアートマンを否定などしていないと反論証明したのです。
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<<あなたの、仏教解釈では、ヒンズー教になるよ。 きちんと中道を歩みましょうね。>>
仏教が、歴史上の仏陀が説いた教えという意味であれば
あなたが信じるものは仏教ではありませんよ。
歴史上の仏陀は、『南無妙法蓮華経と唱えろ』とは一言も言っていませんよ。
きちんと中道を歩みましょうね。
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<<インドラ神や帝釈天のような梵天は、仏教では仏法修行者の守護神という解釈ですから、仏陀は認めていたでしょうね。 目に見えない神々の世界の守護が仏法者には起きる。♪>>
この文章を見ても、あなたには根本仏教の理解は無理のようです。
アートマンがインドラ神や帝釈天と同じと思っている人と今まで話をしてきたのかと思うと
なんと時間を無駄にしたか、と悔やんでいます。
自分でアートマン否定が仏教だと言っていながら、アートマンを肯定する資料を出したら
『アートマンはインドラ神や帝釈天だから仏陀は認めていたでしょうね』とは。(笑)
もう完全にあなたと話す気はなくなりました。
時間の無駄です。
どんなに論破されてもただ自分のドグマを主張してくるだけの人とは関わりたくありませんね。
もし、このスレに書き込むのであれば、パーリ語原典から研究してください。
あなたには、ドグマを離れて、歴史上の仏陀の真実を探求するということは理解できないようです。
いくらパーリ語原典を引用して証明しても、とんちんかんな答えと自分の信仰するドグマの押し売りしかしませんね。
とんだ時間の無駄でした。
ご自分でスレッドを立てて自分の信仰するドグマを書き込むか、創価学会トピで日蓮仏法を討論すればいいと思いますよ。
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つまり、あなたは仏陀が言ったこともないことを信じているのですね。
そうであれば、仏陀のこのスレには用はないでしょうね。
日蓮が言ったから信じているのであれば、日蓮のトピに行けばいいだけですよ。
あなたが信じていることは歴史上の仏陀とは関係ないですね。
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法華経に
『一称南無仏 皆已成仏道』
『一たび南無仏と称せば 皆なすでに仏道を成じたり』
と書いています。
法華経を本当に信じているのであれば、『南無仏』と称していくべきですね。
法華経がわざわざ、『南無仏と唱えれば、みんな成仏する』と書いているのに
あなたは南無仏と唱えないのですか?
法華経のこの文を信じていないことになりますよ。
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法華経にはこうもあります。
『南無観世音菩薩 称其名故 即得解脱』
『南無観世音菩薩とその名前を称えるがゆえに、すぐに解脱することができる』
法華経には、こう断言してあります。
なのに何故、あなたは法華経に書いてある通り『南無観世音菩薩』と唱えないのですか?
法華経のこの文を信じていないのですか?
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<<言ったか言わないかはわからないといっているのよ。>>
原始仏典にも大乗仏典にも『南無妙法蓮華経と唱えれば仏道を成じる』とは
どこにも書いていないですね?
法華経にさえ書いてないのですよ。
そんなに重要なことなら、なぜ、法華経にも、最古層の仏典にも出てないのですか?
つまり、日蓮がそう感得して日蓮がそう言っているのですよね。
で、あなたはその日蓮を信じている、そうですね?
そのことは、信仰のことですから、私は反対はしません。
大川隆法が仏陀の生まれ変わりだと言って、あるいは仏陀の本体から感得した、と言っていて
それを信じる人にも反対はしませんし、その人その人の信仰の問題です。
大川隆法を信じている人に対して、例えば『大川隆法が言ってることは、どの仏典にも書かれていないものだ』と言っても、あなたと同じことを返してきたでしょうね。
私はどの人の信仰も尊重します。
ですが、ここは、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったか、のスレですよ?
どの仏典にも書かれていないことを信じるのは自由ですが、
歴史上の仏陀が言ったことを検証する主旨には合いません。
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<<あなたが受持成仏が理解できないだけ(笑う>>
どの仏典にも書いてないことを、特に法華経にさえ書いてないことを
自分の宗派のドグマによって正しいと言い張るのは、このスレでは場違いですよ。
仏典のどこに『南無妙法蓮華経と唱えれば仏道を成じる』と書いてあるのですか?
ちゃんと、答えてください。
<<教えが文字になった時には仏陀滅後300年以上たっているのよ。 その時には大乗は興っている>>
全く違います。仏教史をあなたの宗派のドグマなしに調べなさい。
<<インドでは多くの神様が伝えられているからね。>>
仏教の神様のほとんどはバラモン教の神様ですね。
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<<天地をつかさどるともいわれる梵天の懇願によって、法を解いているのよ。 当然それを知らなければ仏陀の真意は理解できないよね。>>
梵天勧請と『仏陀はアートマンを否定していない』という説とは何の関係もありませんね。
<<苦がアートマンだと思っているの? アートマンに執着するようでは、一切のとらわれやこだわりを離れた姿には向かわないと思うがね。>>
あなたにこれ以上言ってもわからないでしょうね。
わかろうともしないからです。
【無常であり苦であるものを、われ、わがもの、わがアートマンとするのは正しいであろうか?】
これが仏陀の真意です。
と言っても、あなたには理解できないでしょうね。
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<<仏陀が書いたものはあるの、どうなの?>>
ありませんよ。常識です。
原始仏典のほとんどは、仏陀の死直後の第一結集から口承によって伝えられてきたものを文字にしたものですよ。