仏教についてのひとりごと 37

大乗仏典はすべて仏陀の死後数百年経ってから、次々と創作されたものですが
原始仏典がすべて古層ではなく、かなり後世になってからのものも多いのです。
最古層のスッタニパータの中でさえ、最古層のものとそうでないものがあります。

そして、このように変遷していきます。
①真理を直接見ること⇒②教義を理解すること⇒③仏陀などへの信仰

教義なるものが整えられて仏教が成立します。
もうその瞬間、仏陀の真意は失われてしまいます。
後世になればなるほど、教義の哲学化が進み、信仰のオンパレードです。

少なくとも、仏陀の肉声に近いスッタニパータを読むと
仏教は仏陀の真意とは程遠いものになってしまったのです。

戒律は、集団生活が始められてから、トラブルが起こるたびに多くなっていったもので
集団生活規律です。
それだけのことです。
ですから戒律を守ったから悟るとかという本質的なものではなく
よって仏陀は『戒律によって清浄になるとは私は説かない』と言ったのです。

ただ、これも後世になればなるほど、非常に重要視されるようになりました。
変質したということです。
仏陀は、戒律は緩やかなものでしたが
ダイバダッタが戒律を厳格にしようとして分派したくらいです。
ダイバダッタが一番、戒律を重要視していたのですよ。

 

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>>仏陀の教えをスッタニパータは踏襲していないと、決めつける方が、おかしいね。>>

仏陀の教えをスッタニパータは踏襲していないと、決めつける』ってどこが?
スッタニパータにも最古層の部分とそうでない部分があるというのは仏教の常識。
それさえ知らないのであれば、語る資格はない。

<<阿含経などが編纂された時には大乗の教えも起きているのです>>

仏陀の死後数か月で第一次結集があった。その後も第二次結集も第三次結集もあったが、古層の原始仏典の多くはその正式な結集を基にしている。
大乗仏教は結集とは何の関係もなく、どこの誰が創作したかもわかっていない。

<<提婆達多にそそのかされたアジャセ王が、父王を幽閉し、夫人が嘆くのを慰めるため、仏陀阿弥陀仏の話をした>>

全くのファンタジー
ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』を観て、歴史上の事実だと思うようなもの。
仏陀阿弥陀仏の話をしたなんて事実はない。
そもそもダイバダッタは、戒律を厳格にしようとして、サンガ内で多くの賛同者を集めたが
仏陀や直弟子がそれを阻止して、分かれていっただけ。
後世になればなるほど大悪人に仕立て上げられたが、ダイバダッタの教団は相当後世まで存続し
玄奘三蔵がインドに行った時にはまだ存続していた。

<<君がいくら言われても修行僧が問題が起きないように戒律を決めたのは仏陀だし>>

そう言っているが?
サンガでトラブルが起こった都度、戒律が多くなっていった。
要は集団生活のための規律。
学校の校則のようなもので、校則を守ったからと言って東大に行けるわけではなく
戒律を守ったからと言って悟れるわけではない。
何ら本質的なものではない。

<<そして迷いから離れる為戒律戒律となると逆に執着してしまうため、道諦として八正道の経や空の教義も説かれた>>

八正道の四諦仏陀の教えそのもので、戒律ばかりいうと執着になるから説かれたなんて馬鹿なことはない。
戒律はサンガができはじめてから定められたもの。

<<仏陀滅後に戒律、戒律としか頭にない出家僧に対しての不満が大乗大衆部が起きた原因>>

大乗仏教が、戒律しか頭にない出家僧に対しての不満から起きたのであれば
そんな不満がなったら、大乗仏典は生まれなかったということだね。

 

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相手をするのも馬鹿馬鹿しいが、あまりにも仏教に無知のようで恥ずかしくなるので。

あなたは、親鸞法然を信じているようだが
盛んに『戒律』とか『出家』とか強調してるね。

法然親鸞の教えと、戒律至上主義・出家至上主義は全くの正反対。

法然は出家などできない人、仏教の教理も理解できない人たちのために
口称念仏を薦めた。それまで救いのなかった娼婦などの人もそれで救われた。
親鸞は戒律がどうしても守れない自分にとことん向き合って
出家ではなく愚禿だと言った人。そして、堂々と破戒した人。

あなたは、自分が信じているという親鸞法然の仏教さえ全く理解できていない。
仏教を少しでも知っている人なら、どん引きするレベル。
恥ずかしいからやめたほうがいいよ。

 

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ひょっとして、頭の中がごちゃまぜになっているタイプか?

法然親鸞が解脱などという言葉を使うことはない。

法然親鸞を信じてると言いながら
『解脱』『出家』『戒律』・・・
そこばかり強調するのは、なにも理解できてない証拠。
法然親鸞もそんなことを超えた絶対他力を説いたのだから。
ちょっと痛すぎる・・・

誰かに構ってほしいだけだったら
日本語をもう少し勉強してから書き込んだ方がいいよ。

 

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話にならない。
きちんと論理的に話し合うことができないようだね。

相手をしたのが無駄だったみたい。

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仏陀が説いたことは、教義でも哲学的な思考でもなく、『生じるものは必ず滅する』という誰が見ても疑いの余地のないことから人間の苦の真実を直視すること、これに尽きます。
仏陀は信仰を説かなかった。
仏陀は教義を説かなかった。
ただた苦という真実を直視し、苦が起こってくるありさまを直視しなさいと説いた。
これは洞察であって教義ではありません。

だからこそ、仏陀は最も肉声に近い仏典で
『「私はこのことを説く」ということが私にはない。』
ヴェーダの達人は見解についても思想についても慢心に至ることがない。かれは宗教的行為によっても導かれないし、伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導き入れられることがない。』
『一切の戒律や誓いをも捨て、宗教的行為をも捨て、それらにとらわれずに行え。』
と言っているのです。

仏陀の死後、仏陀の生前の言説から教義が作り上げられ膨大な量になっていった。
また、後世になるほど、その教義に対する信仰や、仏陀個人に対する信仰など、さかんに信仰の大切さが強調されることになった。
そのことによって、仏陀の真意は失われていったのです。

ただ、ここでこれを言っても誰も理解しないでしょうね。
しかし、最古層の仏典スッタニパータの、その中でも最古層の第4章第5章には
『「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。』というような語句が頻繁に出てくるのです。

仏陀は、バラモン教の教義を捨てて仏教の教義を信仰しろとは言わなかった。
それは一つの束縛から別の束縛へと行くようなものだからです。

『自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ』・・・
自我を構成する最も固いものに教義や信仰があります。
歴史を見ても、人類は固執する宗教で戦争し人殺しをしてきました。
最も強固な自我ではないですか?


このスレッドを立ち上げたのは、仏陀の言いたかったことを自由な立場でパーリ語原典から探究している人が他にいるかなという期待からでしたが、どうも無理のようです。
やはり、自分が固執する一つの宗派や教義、ドグマの正当性を声高に叫んでくる人ばかりなので
意味がないものになっています。

 

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カルトカルトと、何とかの一つ覚えですね(笑)
カルトの最大の特徴は、強烈な信仰を強要することです。
特に教祖個人への信仰を強調して、意のままに従わせるのです。
信仰を捨てよと主張するカルトなんて聞いたことがありませんが(笑)

あなたを相手にする人は誰もいないようですが、
あまりにも矛盾だらけのことを言っているので少しだけ言います。

あなたは末法無戒と盛んに言っていますが、その意味を知っていますか?
主に日蓮系の宗派と浄土真宗系の宗派で言っている用語ですが。
日蓮系のある一宗派では、末法には正法像法で定めた戒律は必要なく本尊受持でいいという意味。
親鸞は、末法に生まれる衆生は戒を保つことなどできない機根のものばかりで、僧も形だけで戒律自体が無意味なもの、という意味。
どちらにしても、末法では戒律は何の意味もないものだという意味ですよ。
あなたは、末法無戒と言いながら、戒律を守れという。
支離滅裂ですね。

歴史上の仏陀は、末法などということは説いたこともなく、末法という考え自体、後世の者が勝手に考え出した虚構ですので、私には何の興味もないですが
あなたは親鸞を信じているのであれば、何とも矛盾することばかりです。
そんな浅薄な知識で支離滅裂なことを一日中書き込んでいるのは虚しくないですか。

誰からも相手にされていないようなので心配になって、最後に言っておきました。
人が好いものですから(笑)