仏教についてのひとりごと 36

仏教といわれているものと、仏陀が本当に説いたことは、全く違います。

仏教は信仰の大切さを説きますが
仏陀は『信仰を捨てよ』と説きます。
信仰というのは、執着の中でも最も強い執着であるからです。
世界で宗教によって起こっているテロを見ればわかりますね。

もし、本当に仏陀が説いたことを知りたいのであれば、
いったん宗派やドグマをすべて捨てて、自由な立場から探求しなければ
結局、自分が固執するドグマに合わせてしまうだけです。
そんなことでは仏陀は永久にわかりません。

仏陀に恋慕、仏陀にすがる、という態度は信仰にしか過ぎません。
仏陀は『信仰を捨てよ』と説きます。

スッタニパータを本当に読めば、仏教というものがいかに仏陀の真意からかけ離れたものであるか、愕然とします。
あなたは、日蓮宗という教学のフィルターからしか見ることができないし
そのドグマを離れて歴史上の仏陀を真剣に探究する気もないでしょう。
それはそれでいいと思いますよ。
他人が何かの宗派に属したり信仰を持つのは、全く自由ですし、
それによって救われる人もいるでしょうから。
私は、他人の信仰は尊重します。
わざわざ、他人の掲示板にまで口を出して、その信仰が間違いだとか正しいなどと糾弾することはありません。

私は大乗仏教を否定しているわけではありません。
生半可な大乗仏教の知識を振りかざして、つじつまの合わないことを主張する人に
その矛盾点を指摘するだけです。
大乗仏典で仏陀の真意は分からないが、仏陀の真意がわかってから大乗仏典を読めば
これほど有難いお経もないですね。
現に、私は毎日、法華経や般若心経など大乗仏典を唱えていますよ。
もともと大乗仏教には親しんでいるからこそ、おかしな主張をされると反論したくなるので、これは反省です。

 

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少しはまともな日本語書いた方がいいですよ(笑)
あなたの文章は日本語になっていないので
誰からも相手にもされないですね。
誰かに構ってほしいのであれば、まずは日本語から上手になりましょう(笑)

さて、私の両親はすでに亡くなっています。
実家は空き家ですね。リフォームはしましたが。
介護老人の世話をしたことは一度もないですね。
これからも絶対ないですね。
事業をしていることは確かです。
前は店舗数も30くらいありましたから目が回りましたが
今はのんびりですね。
銀行の支店長としゃべったり、取引しているところと商談したり
顧問弁護士と話したり、そのくらいですから時間的にも楽にはなりました。
ただ、ネットで暇つぶしするほど暇でもありませんが(笑)
原始仏教研究は趣味ではなくてライフワークですね。
事業をやめても豊かに暮らすだけのお金はあるので
ライフワークに専念する選択も出来ます。
教祖になる気なんて馬鹿な考えは全くないですよ。
もう何をしなくてもいい経済的自由は手に入れてるので
何も馬鹿馬鹿しいことをする必要などないのです。

あなたも他人の掲示板までわざわざ来て
くだらないことを書く暇があれば日本語を勉強した方がいいですよ。
まともな日本語が書けるようになれば、誰かが構ってくれるでしょうから。
現状のままだと、ちょっと相手する人はいないでしょうね。

 

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一つのブログを拾ってきて、その解釈以外を『自分勝手な解釈』と呼ぶ方がおかしいですね。
そのブログは間違いです。
仏陀は、信仰も戒律も教義も、それで清浄になるものではないと見なしていました。
そのブログに書いてある『信仰を捨てよ』の部分の、中村元の注釈には
『最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。なんとなれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。スッタニパータの中でも遅い層になって、仏の説いた理法に対する信仰を説くようになった。』とあります。
これが真実です。
仏陀の肉声に最も近い部分では、つまり仏陀自身は、信仰を説かず、信仰という執着を捨てよと説いたのです。
戒律によっても教義によっても哲学によっても清浄にはならない、というのが、仏陀の直説です。
ですから、仏陀が本当に説いたことと、後世に捻じ曲げられたことでは
まさしく正反対で、今までの仏教の枠組みを信じたい人は
スッタニパータを見ることは危険ですね。

ネットで検索して、自分の主張と同じブログを拾ってくるのではなく
直にスッタニパータを読んだらどうですか。

それと、私のハンドルネームはショーシャンクでシャンクではありません。
あなたは社会から離れているようですから仕方ないかもしれませんが
社会生活では、友達でもない限り相手の名前を略したりしないものです。
株の掲示板でも、そういうことをする人は間違いなく専業つまりニート
社会生活から離れている人です。

 

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私は仏教徒ではないですよ。同時にキリスト教徒でもイスラム教徒でも何教徒でもありません。
何教徒にもなろうとも思わないし、なってはいけないと強く思っています。

仏教が成立したときに仏陀の真意は失われてしまったと思っていますし
ここのスレで、仏教の一つの宗派、教義、ドグマに固執しているあなたがたの投稿を読むと
ますますその確信は深まります。
信仰とは執着の最大のもの、束縛の中で最も強いもの、です。
仏陀が『信仰を捨てよ』と言ったとき、
それはバラモン教の信仰を捨てて仏教を信仰しなさいといったわけではありません。

最古層の仏典はスッタニパータですが、
そのスッタニパータの中でも最も古層で仏陀の肉声に近いのが第4章第5章です。
その第4章で仏陀
『「私はこのことを説く」ということが私にはない。』
『「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。』
ヴェーダの達人は見解についても思想についても慢心に至ることがない。かれは宗教的行為によっても導かれないし、伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導き入れられることがない。』
『一切の戒律や誓いをも捨て、宗教的行為をも捨て、それらにとらわれずに行え。』

最も仏陀の肉声に近い最古層の部分では、
このような言葉が繰り返し出ています。
教義も戒律も宗教的行為も執着の巣窟だと見なしていたのです。
『信仰を捨てよ』という言葉の背景には、信仰の対象となる教義や宗教的行為を捨てよという多くの言説があるのです。

あなたやmicとかいうもののように、
歴史上の仏陀が何を言いたかったのかのこのスレッドにわざわざ来て
自分が信仰する大乗仏教と考えが違うと怒り出し言葉遣いも乱暴になるような人たちを見ていると、仏陀が言ったことに確信が深まります。
教義も戒律も宗教的行為も執着の巣窟なのですよ。
それらを信仰することによって、あなたやmicというものの精神が自由で壮大なものになってるとは全く思えないのです。

しかし、あるものを信仰し教義に捉われたあなたがたの投稿を見ることによって
そういうことを捨てよと言った仏陀の真意が浮き彫りにされてきたのでよかったとは思います。

 

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本当にそうですね。
このsanという人は、自分が信仰する日蓮宗の正しさを証明するためだけに
スッタニパータを都合よく引用してます。
sanという人が言うように、もし、仏陀を恋慕することが仏教徒で自分は仏教徒というなら
仏陀の肉声に最も近いスッタニパータの言うことを理解すべきです。

仏陀は『私には握りこぶしはない』と言いました。
もし、本当に『南無妙法蓮華経』が仏陀が説きたいことであったなら
スッタニパータに出てくるはずですね。
スッタニパータはおろか、法華経にさえ出てきません。
法華経には『南無仏』と唱えることが出てくるだけです。

歴史上の仏陀が本当に言いたかったことがテーマのこのスレにわざわざ来て
自分の信仰する大乗仏教の一宗派の教義を主張する感覚がよくわかりません。
自分の信仰を主張したいのであれば、自分のスレッドを立ち上げればいいと思いますね。

 

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<<同感!サンコウはあっちこっちのトピで法華を喧伝し、また、いい人ぶりっこする偽善者です。対抗するために俄かにスッタニパータを読みだしたが、真意は理解してない。^^>>

そうなんですよね。
かれらは、いわゆる『折伏』をするために、その人が読んでいる書物を読んでは、自分の信仰に導こうとしているだけで、スッタニパータを読んで仏陀の真意は何かを探求しようという気持ちはゼロですね。
まずは、自分の信仰が正しいという結論ありき、です。
その結論を都合よく証明してくれる文言を探し出しているだけですね。


<<私は恐らくサンコウの虫籠に入ってます。^^>>

私も、そろそろmicとsanという人は虫籠に入れたいところです(笑)

 

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同じことを言うのも億劫ですが
最古層のスッタニパータの中でも最古層で仏陀
『「私はこのことを説く」ということが私にはない。』
『「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。』
ヴェーダの達人は見解についても思想についても慢心に至ることがない。かれは宗教的行為によっても導かれないし、伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導き入れられることがない。』
『一切の戒律や誓いをも捨て、宗教的行為をも捨て、それらにとらわれずに行え。』

このように言っているのですよ。
信仰の対象である教義や宗教的行為に固執してはならないと、仏陀が言ってるのです。
ですから、同じスッタニパータで『信仰を捨て去れ』と言ったときは
あなたのいうような、バラモン教の信仰から仏教の信仰に移りなさい、という意味でないことは明白です。
様々な執着から成り立つ信仰というものを捨て去って、人間の真実を直視しなさいという意味で
中村元が書いているように『最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった』のです。
最初期とは仏陀の在世中です。
信仰なるものを説かなかった仏陀が、『信仰を捨て去れ』と言った場合には
バラモン教も含め、すべての信仰なるものです。

 

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