ハトさん、おはようございます。
日本は大乗仏教の国で、その主流は聖徳太子の時代から法華経でしたね。
私も大乗仏教には親しんできましたし、今でも法華経や般若心経など大乗仏典を唱えていますよ。
日蓮の、小さい時からの疑問はこうでした。
日本は仏教が隆盛を極めているが、その教えは宗派によってバラバラで、しかも、これほど仏教が盛んなのに大災害や疫病、飢餓が後を絶たない。
それは、釈迦の本当の教えが世に広まっていないからだ。
釈迦の真意は何であろうか。
ということでした。
そして、仏典研鑽の末、法華経こそが釈迦の本心そのままだと断定したのですね。
さて、今の時代に日蓮が生まれていたらどう言うでしょうか。
これを考えると非常に面白いです。
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こんばんは。
大乗仏典のどれかを選択して、それを信じようとすることを否定する気はありません。
その人その人に最も合った『バイブル』を選べばいいと思っています。
しかし、私のテーマは、『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか?』ということです。
その場合、仏陀の肉声に最も近い最古層の仏典スッタニパータを中心に調べるしかありません。
調べた結果、私の結論としては、仏陀は彼岸に渡る筏を残したが、人類はそれを理解できず、筏を無視し捨ててしまったということです。
大乗仏教は素晴らしい教えで絢爛豪華ですが、残念ながら筏=彼岸に渡る術がないと思います。これは上座部仏教でも同じですが。
ですから、大乗仏教、特に日本仏教は、その宗祖たちが自分なりに彼岸に渡る方法を簡素化し選択したのです。
法然は念仏。日蓮は唱題。道元は座禅。というように。
法華経は力があり功徳がある有り難いお経です。
しかし、日蓮の残念なことは、法華経を尊敬するあまり、他のお経を尊敬する人を攻撃したことです。
排他的な精神は宇宙大にはなれないのです。
排他性こそが人類が卑小な精神でいつづける原因です。
宗派にとらわれては、無限には行き着かないでしょうね。
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膨大にある仏教経典群や教えから、法然は念仏を選択し、空海は密教経典を選択し
そして日蓮は法華経を選択した、ということです。
信仰の問題ですから、それはそれでいいのではないでしょうか。
『お釈迦様の言わんとすることがないがしろにされ』と書かれていますが
仏陀の肉声に最も近いのはスッタニパータなど最古層の仏典です。
仏陀が言おうとすることを研究しようとすれば、現代であれば、スッタニパータを研究するしかないでしょう。
天台の五時教判は、ストーリー的にもよくできた説でした。
華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華時と分けた説で
大変魅力的な説ですが、歴史上からはファンタジーですね。
大乗仏典のどれを選択し信仰しようと私はそれは尊重しますよ。
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空海は大日経などの密教経典を選択したからですね。
そのような人たちからは『法華経は薬の効能書きのようなもの』という批判があります。
しかし、私はそうは思いません。
白隠は、若い頃法華経を読んで、『こんなたとえ話だけのお経に価値はない。講談本と同じ。』と思って捨てたのですが、悟ってから法華経を読み返して号泣した、と言います。
空海も最晩年、『法華経開題』『法華経釈』を書きます。法華経の著作が最後の作です。
聖徳太子以来、日本は法華経が主流であり、私も法華経は好きですが
同じように華厳経も般若心経も好きです。
それぞれの人が、自分に合った経典を持てばいいのではないでしょうか。
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私は何の宗派に立つわけでもありません。
というか、精神は何かに属してはいけないと思っています。
人間は属するから縛られ争うのです。
禅も法華経も好きですが、どちらにも属しません。道元の『正法眼蔵』は読んでいますが
彼は哲学者としては一流でしたが、精神の自由を得ているとは思いません。
あなたは法華経を本当に読んだことがありますか?
本当に、というのは、日蓮の解釈にもよらず、天台の解釈にもよらず
魂で読む、ということです。
日蓮の解釈は日蓮個人の悟りであり、あなたの悟りではありません。
私は日蓮の御書も読んでいます。
日蓮は『今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし』と言っているではありませんか。
つまり、彼は最終的には法華経も否定して、唱題だけに特化しています。
もし機会があれば、日蓮の解釈によらず、天台の解釈にもよらずに
法華経を自分の目で読んでみられればいいでしょう。
そして、そのときに感動すれば、初めてそれはあなたの書であるといえます。
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挙げられている文の
『小乗経、大乗経、並に法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず』を見ても
法華経を否定して、妙法蓮華経という五字の題目のみを末法の法としていますね。
それは日蓮の悟りであるので、それはそれでいいと思います。
しかし、最終的には、あなたの挙げられた日蓮の文章でも
法華経も他のお経も薬にはならないと否定しているのではないですか。
つまり唱題という修行法を日蓮は選択した、ということです。
同様に、法然は口で唱える念仏を選択しただけです。
道元は只管打坐を選択したのです。
つまり、人類は仏陀の『筏』を捨てたために彼岸に行く術を失い
後世の宗祖たちが自分で筏を作ったということです。
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宗派の理論の中で自分たちが正論であると誇るのは別に構いません。
どの宗派でもそういうことばかりやってますから。
妙法五字つまり妙法蓮華経と言う5つの文字は漢字ですね。
仏陀は漢字もサンスクリット語も使っていません。
『妙法蓮華経』という五字こそが法華経であるというのは日蓮独自の説です。
漢字文化の国でしか通用しません。
>>日蓮聖人の御遺文のどこをみても法華経否定や釈迦役立たずなどと云うような教示などありません
あなたの挙げられた日蓮真筆『小乗経、大乗経、並に法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず』はどうなのですか。
法華経も薬にはならないと書いてあるではありませんか。
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「妙法蓮華経」の五字は サンスクリット語では「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ 」というのは当然知っていますが
仏陀はサンスクリット語も使ったことはありません。
あなたは、サンスクリット語原典の法華経と漢訳の法華経では違いがあることをご存知ですか。
漢訳では、略法華と呼ばれて非常に重要な十如是は、原典では数も意味も全く違います。
日蓮の教えは日蓮独自のもので仏陀の説いたこととは全く関係のないものです。
そもそも、大乗仏典自体、仏陀を見たこともない数百年後の人たちが創作したものであることはご存知ですね。
私は別に仏陀の直説でないから価値がないとは思いません。
大乗仏典は思想的な高みにおいて非常に素晴らしいものです。
しかし、歴史上、仏陀の直説ではないことは理解してください。
それを釈尊の教えだとかにするから指摘したくなります。
日蓮が独自に説いた教えはそれはそれで素晴らしいと思いますし力もあると思いますよ。
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