仏教についてのひとりごと 61

仏陀成道のときの感興句;

 努力して瞑想しているバラモンにもろもろのものごと(因果関係の鎖をなしていること)が顕わになったとき、彼はもろもろの原因を持つものごと(ものごとは原因があって生ずるということ)を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る。

 努力して瞑想しているバラモンにもろもろのものごと(が因果関係の鎖をなしていること)が顕わになったとき、彼はもろもろの原因(縁)の滅を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る。

 努力して瞑想しているバラモンにもろもろのものごと(が因果関係の鎖をなしていること)が顕わになったとき、彼は、太陽が天空を照らすかのように、悪魔の軍勢を打ち破って立つ。


この感興のことばはあまりにも有名であるが、じつは、多くの仏教学者たちが、ここに神秘主義的な解釈を盛り込もうとやっきになってきた。
玉城康四郎博士は、禅定こそが仏になる唯一の道であるとして、この言葉を、『形無き純粋生命が全人格的思惟を営みつつある主体者に顕わになるとき、初めて人間自体の根本転換、すなわち目覚めが実現する』などと訳している。
しかし、最晩年の玉城博士は、身近な人々に、自分がやってきた修行方法ないし仏教解釈には重大な誤りがあったと述懐していたという。
                           -宮元啓一の著作より

 

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<<玉城康四郎博士は、禅定こそが仏になる唯一の道であるとして、この言葉を、『形無き純粋生命が全人格的思惟を営みつつある主体者に顕わになるとき、初めて人間自体の根本転換、すなわち目覚めが実現する』などと訳している。
しかし、最晩年の玉城博士は、身近な人々に、自分がやってきた修行方法ないし仏教解釈には重大な誤りがあったと述懐していたという。>>

後世成立した大乗仏教の理論から、歴史上の仏陀の言葉を解釈しようとするのは全くの間違いです。

仏陀の言った『縁起』と、後世、ナーガールジュナが哲学的に造り上げた『縁起』の理論とは全然違います。
ですから、ナーガールジュナの創始である、
縁起⇒空
縁起⇒無我
は、仏陀の真意ではありません。

ナーガールジュナがいうように、『すべてのものごとは、それ以外のすべてのものごとによって存在している、だからそのものの固有の性質、自性はなく、空であり無我である』というのが、仏陀の考えた『縁起』であるならば
【努力して瞑想しているバラモンにもろもろのものごとが顕わになったとき、彼は縁の滅を知ったので、彼の疑念はすべて消え去る。】
ということはあり得ないことになります。

つまり、ナーガールジュナが考えた『縁起の真理』からすれば、『縁の滅』ということはあり得ないのです。

まずは、後世勝手に造り上げられた虚構の理論をいったん置いておいて、歴史上の仏陀の言葉を直に見ないと玉城博士のようになってしまいます。

 

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仏陀は『この正しい法は、1000年続くところ500年となった。』といい
別のところで『贋金が現れない限りは、本物の金は滅びない。』と言いました。

贋金とは何でしょうか。
贋金が現われ、そして贋金が本物を滅ぼすほど蔓延ることなどあるでしょうか。
もしあるとしたら、その贋金は本物に極めて近いほど精巧であるはずですね。
そして、人々が本物のお金をそっちのけで、贋金に夢中とならなければ、本物は滅びるわけないですね。

 

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仏陀が説く『縁起』と、後世のナーガールジュナが造り上げた理論の『縁起』は全く違います。

原始仏典のどこを見ても
『縁起』とは、十二縁起を代表とする『苦の縁って起こる原因』のことです。

仏陀は、『これに縁りて苦が起こり、これが滅することに縁りて苦が滅する』、これを『縁起の法』と呼んだのであって、それに例外はありません。

その『縁起の法』を、500年後に現れたナーガールジュナは、
『すべてのものごとは、それ以外のすべてのものごとによって存在している、だからそのものの固有の性質、自性はなく、空であり無我である』という哲学に変えてしまった。

そして、ナーガールジュナは天才であったがために、その理論に人類は心酔し、それ以降、ナーガールジュナの創設したこの『縁起の法』が仏教の根本とされてしまいました。
ここにおいて、仏陀の真意はどこにもなくなってしまった。

仏陀は、『正しい法は500年しか続かない』『本物の金は贋金の出現によって滅びる。贋金が現れない限り本物の金は滅びることはない。』と予言していました。

 

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ヒンドゥー教には開祖がいません。
インドの長い時間の中で醸し出された豊穣なフィールドそのものです。
ですから多様性に富んでおり、バクティもその多様性のひとつですね。
バクティの道でも神に到達することを実証した人は多いですが、
近代ではラーマクリシュナが有名です。
バクティの道はシャンカラのような知の道とは違い、感情の座が重要です。
全感情で神を愛することによって神に到達しようとする道です。

ヒンドゥー教は日本には入ってきていませんが、浄土系は基本的にはバクティとその本質は同じものでしょう。
日本の浄土系の中でも一遍は本物で、まさしく全感情を持って阿弥陀仏を親愛し、救われた歓喜を多くの人に伝えました。

しかし、親鸞は、前にも書いたように
『私も、いくら念仏しても踊躍歓喜の心が一向に起きない』と弟子に白状しています。
そして悩んで考え抜いたあげく、
『踊躍歓喜の心が起きないのは煩悩のせいである。しかし、阿弥陀仏の本願は煩悩の多い凡夫の救済にあるのだからかえってそのほうがいいのだ。』という理屈で自分を納得させます。
さらに悪いことには
『踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候いなまし』と言っています。
つまり、『踊躍歓喜の心があったら、弥陀の本願から外れるのではないかと怖れる』とまで言っているのです。

親鸞の場合、バクティの道で最も重要な感情の座ではなく、頭だけの理屈で自分を納得させようとしているのであり、最後まで救いの感覚はなかったのではないでしょうか。
歎異抄を深読みし、さらに教行信証を読めば、そう思えてきます。