スッタニパータ『アジタの問い』

> 「家を作る者」とは、『ダンマパダ』にあるものですね。
> 153.わたしは、幾多の境涯を、得るものもなく輪廻してきた。家の作り手を探し求めながら、くり返す境涯は、苦しみである。
> 154.家の作り手よ! おまえは見られた。おまえが、ふたたび家を作ることはないだろう。おまえのすべての梁や桟は破壊され、家の屋根は壊れ落ちた。心は、意志(行)を離れ、渇愛は滅尽に至った。
>
> なかなか! いいですね。お見事です。
> わたしは、このことばは、おっしゃるように「輪廻」を示すと思います。
> 同じ単語ではありませんが、ヤ-ジュニャヴァルキヤの説に出てきて、特に、ア-トマンが身体を捨てて、別の身体を得ていくさまを、縫い子が刺繍を一つ取り去って新しい刺繍を作る様子にたとえているのです。
> 特に、「家を作る者」をあげていただいてすごいな、と思うのは、それが、どちら(縫う女も家を作る者も)も<人>を指しているからです。ヤ-ジュニャヴァルキヤも、永遠不滅のア-トマン(自己)を説きますが、それをプルシャ(人)と言い換えたりもするのです。
> あまり違いが言われることはなく、どちらも同じだなどと考えられたりもしますが、やはり微妙に違うのではないかと思ったりもします。ブッダが輪廻を語る時は、<人>を意識して語りますね。
> スマ長老は、そこを仏教的に解釈して、「妄執」のことだとしています。法として語る時には、具体的にそれでいいと思います。


おっしゃるように、『縫う女』も『家を作る者』も、ナ-マル-パ=個体を形成しようとするもので、渇愛のことだろうと私も思います。
そういう意味で全く同じかもしれませんね。

興味深いのは、それを超える方法についての仏陀の表現の違いです。

『縫う女』を超えるには
『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』ことだと答えています。
それに対し、
『家を作る者』は見ることによって滅することができるようです。

滅する方法が違うので微妙に違うものを比喩しているのかもしれません。

仮説として、
『家を作る者』は、再生をもたらす無明もしくは渇愛で
『縫う女』は、この世の欲望、煩悩のことなのかなとおもったりしたのです。

しかし、先生がおっしゃるように、本来の『縫う女』の意味は
ア-トマンが新しい身体を作っていくことなのであれば
『家を作る者』と変わりはないですね。

ご回答ありがとうございました。

それにしても、
『両極端を知りつくして、よく考えて、中間にも汚されない』という仏陀の言葉は非常に興味深いです。
中道とは中間のことではないと言っているようで、
弦の喩えで強くても緩くてもいけない、その中間と思っている人には衝撃かもしれません。

 

 

石飛先生。

私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。

ですから、スッタニパ-タ1042の仏陀の言葉の中の
『両極端』と言う言葉も、抽象的なことを指しているのではなく
『苦行の道』と『快楽の道』を指しているのだと考えています。

『苦行の道』も『快楽の道』も離れて『中道』を行く、と仏陀が宣言しましたので
そうすると多くの人はその両極端の中間のことだろうと考えています。

しかし、仏陀が言ったのは、苦行と快楽の中間、つまりほどほど苦行、ほどほど快楽、などではない
と、このスッタニパ-タの言葉は言っているように聞こえます。

苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。

歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。

よって、『両極端』と言う言葉も、抽象語ではなく具体的な『極端』を指し示していると考えます。

 

 

> ショ-シャンクさん
>
> ちょっと横から失礼します。
> それと、私は丁寧語では話さないのであしからずご容赦を。
>
> >私は、歴史上の仏陀以外の宗祖の解釈に依らずに仏陀の真意を解釈したいと思っていますので
> >仏陀の言葉を龍樹の論理で見ることもしません。
>
> そうですよね。すき焼きの中にスパゲッティやお寿司、その他いろんなものをぶちこんでも美味しい料理にはならない。
> むしろそれぞれの味の違いを楽しめばよい。
> 仏教の場合、逆にそれをやれば密林の中に迷い込んであちこち彷徨うことになり、虚しく路頭に迷うようなものです。
> アビダルマや大乗の論理をいくらこねくり回しても解脱を引き寄せることなど出来ないと思う。なぜなら「智慧」一つとって
> も大乗のそれとブッダの智慧は違います。それ以前に大乗からいったいどれだけの解脱者が出ていますか?
>
> 歴史をさかのぼれば過去にブッダが出現されて法を説かれ、存命中には多くの弟子が修行に励み沢山の解脱者を輩出しました。
> その詳細は原始仏典に記録されているのだから、まずここに注力するのは当然のことでないでしょうか。
>
> >しかし、仏陀の言う『中道』は『八正道』のことであり
> >
> >身体の道ではなく、智慧の道なのだと私は解釈しています。
> >
> >歴史上の仏陀の顕著な特徴は、決して抽象論を説かなかった、観念論を説かなかったことだと思います。
> >非常に具体的なこと(生じるものは必ず滅する、など)から説いて、抽象論に陥ることを排除したと考えています。
> >
>
> 中道というと、大乗を先に勉強した方は中観派の「空」と混同してしまいがちです。龍樹が縁起を空性や中道と結びつけて論じているから
> なおさらその傾向が強い。でもこの解釈は間違いだと思う。
> なぜなら、あなたもおっしゃるように中道は原始仏典で「八正道」であると明確に説かれています。
> ブッダの縁起は渇愛を滅するための縁起であり、大乗の縁起は「縁起=空=無自性=仮設=中道」で諸法実相を説いたものです。



通りすがりのおっさんさん、ご投稿ありがとうございます。

わかっていただける方がおられてうれしい限りです。

日本仏教は最初から今まで大乗仏教でしたので、ほとんどの人は仏陀の言葉を大乗仏教の理論で解釈しようとします。
しかし、それは絶対にやってはいけないことだと思います。
逆なのです。
すべての先入観を捨てて、仏陀の言葉に直接向き合い、仏陀の真意がわかってから初めて大乗仏典を読むべきで
その逆をやってしまうと仏陀の真意を見誤ることになると思います。

おっしゃるように、『縁起』も『中道』も仏陀が言った意味からは全く違ったものになってしまっています。

私は、歴史上の仏陀が本当に言ったことを探求したいと思ってきました。
そして、今こそ、仏陀の本当の真意が明らかになる時代なのではないかと思っています。

これからもよろしくお願いします。

 

 

 [No.17274] Re: 新年のご挨拶と今年の抱負と今のわたし 投稿者:ショ-シャンク  投稿日:2020/01/10(Fri) 11:58:37

石飛先生、おはようございます。
午前中、お墓を納骨殿に移す儀式がありましたのでやっといま座ることができました。

> >苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。
>そこに「身体」と限定することばが必要かどうか、なぜそう言うのか、説明してもらえますか?

苦行は身体的な苦行のことであり、快楽は身体の快楽のことだからです。
苦行の道と快楽の道は正反対のように思えますが、結局身体に関わるものであり、智慧と違うもの、
よって、仏陀は苦行で身体を痛めつけても悟れることはないと思ったのだと考えます。
もちろん、私の解釈にしか過ぎません。


>カッチャ-(ヤ)ナ に語った「有る」と「無い」に関する中道です。
ここは、問題にしないのですか。
しないのであれば、なぜか、お聞きしたいです。


苦行と快楽に関しては、仏陀が二辺(と言う極端)を離れ『中道』を行くと宣言し、その中道とは八正道のことだと言っています。

有無に関しては、私は仏陀が『生じるものだから無とはいえない。滅するものだから有とはいえない。』と言ったことは知っていますが
そのときに、『有でもない、無でもない、中道を行く』とは言ってないように思えます。
もし言っているとすれば私が知らないだけなのでしょうけど。

有無に関しても、『中道を行く』という場面があるのでしょうか。教えてください。

 

 

 

石飛先生、こんにちは。

先生の指摘を受けて、両極端と中道について、調べてみました。

苦行と快楽に関しては、仏陀が最初に宣言した言葉としても有名ですし、中道という言葉を使っています。
そして、中道とは八正道と言っています。

断見と常見に関しては、
『苦は自作であるという説は常見に陥る』『苦は他作であるという説は断見に陥る』として
如来は中によって法を説くとして、十二縁起を説いています。

有と無に関しては

「 一 切 が あ る とい うの は一 つ の極端 で あ る.一 切 が な い とい うの は
第 二 の極 端 で あ る.こ れ ら両 極 端 を離 れ て,如来 は 中 に よ って 法 を説 く」とあって
これも十二縁起が説かれています。


ということは、中道である八正道が説かれているのは、苦行と快楽に関してだけのような気がします。

「だから何?」と言われるかもしれませんが、私には興味深いものでした。

 

 

> > 苦行も快楽も身体の道であり、その中間も身体の道です。

> 今、ひょっと思いつきましたが、「縫う女=家を作る者」の絡みでお話になっていますか?


いえ、アジタの質問には絡ませていません。
メッテイヤの質問だけで考えています。
また、メッテイヤの質問に『縫う女』が出てきますが、縫う女=再生の身体を形成するもの として
縫う女を超えることとして両極端(苦行と快楽という身体にまつわるもの)にも中間にも汚されない道を説いた・・・
とまで考えて両極端を苦行と快楽にしたわけではありません。
しかし、『縫う女』や『欲望に関して清らかな行ない』と言う言葉からしても、両極端を苦行と快楽にして違和感がないようには思えます