あっちゃんさん、こんにちは。
とてもいいご質問ありがとうございます。
仏陀にこう聞いた弟子がいます。
『苦、苦と言われますが、苦ではない感受、快適で楽である感受もあるのではないですか?』と。
このように聞ける人がいたのが、原始仏教の時代の強みですね。
自分が納得しなければ、仏陀が言った理法といえども納得するまで徹底的に聞くことができる人がいたのです。
こういう人の存在のおかげで、私たちは仏陀の法をうかがい知ることができます。
その質問に対し、仏陀はこう言います。(意訳です)
確かに、感受には、苦そのものである苦受、快適である楽受、苦でも快楽でもない不苦不楽受がある。
苦受は苦そのものであるから苦苦。
しかし、楽受であっても、その対象は衰滅するものである。その対象が壊れたときには苦となってしまう。これを壊苦という。
不苦不楽受であっても、感受する主体は衰滅する。その対象も衰滅する。時の経過とともに苦となってしまう。これを行苦という。
ところで、苦苦はわかりますね。
棒で殴られたときの激しい痛みは、まさしく苦そのものです。
壊苦もわかりますね。快楽の対象が壊れたときはとても苦です。
一番わかりづらいのは行苦です。
芭蕉に、こういう句があります。
衰ひや 歯に喰い当てし 海苔の砂
芭蕉の時代では、海苔に砂が混じっていることはよくあったそうです。
それまでは砂があってもなんでもなかったのに、
ある時に、砂を嚙んだ瞬間、苦痛を感じたのです。
芭蕉はそこに身体の衰えを感じます。
このように、それまでは、不苦不楽受であっても、感受する主体である身体が衰滅していくことからだんだん苦に変わっていくのです。
これを行苦というと私は解釈しています。