行苦とは

 あっちゃん (175.177.47.57)    
初めまして。。
Amazonで評判の本があるということで「仏陀の真意」を昨日購入し、先ほど読み終えたものです。
仏教に対して理解が薄かったのですが最後まで一気に読み切れる大変読み応えのある御本でした。
僧侶の方が書かれてる本も読んだことはありますがどうしもその人の仏教に対するスタンスや熱意が端々に伝わってきてしまうのでニュートラルな視点で書かれた本は本当に出会えてよかったです。
一点本の内容について質問がありこちらに参上いたしました。
128ページ(kindle)で 「苦痛でも快楽でない感覚も、自分の感覚器官が衰退していき苦痛に変わります」 という部分がどうしても理解が及びませんでした。
現状自分の解釈としましては 「不快でも快でもないという感覚自体がどんどんと進行していき、そのことじたいが及ぼす影響によって苦痛に変わる」 と認識しております。
ただ「不快でも快でもない」と感じること自体はマイスナスにもプラスにも自分に作用が起こらないのだから良いことなのでは?と思っています。
でも自分がいるステージじたいは非我のままだから苦、ということでしょうか?
(言葉足らずでしたら申し訳ありません)

 

 

 

あっちゃんさん、こんにちは。

とてもいいご質問ありがとうございます。

 

仏陀にこう聞いた弟子がいます。

『苦、苦と言われますが、苦ではない感受、快適で楽である感受もあるのではないですか?』と。

このように聞ける人がいたのが、原始仏教の時代の強みですね。

自分が納得しなければ、仏陀が言った理法といえども納得するまで徹底的に聞くことができる人がいたのです。

こういう人の存在のおかげで、私たちは仏陀の法をうかがい知ることができます。

 

その質問に対し、仏陀はこう言います。(意訳です)

 

確かに、感受には、苦そのものである苦受、快適である楽受、苦でも快楽でもない不苦不楽受がある。

苦受は苦そのものであるから苦苦。

しかし、楽受であっても、その対象は衰滅するものである。その対象が壊れたときには苦となってしまう。これを壊苦という。

不苦不楽受であっても、感受する主体は衰滅する。その対象も衰滅する。時の経過とともに苦となってしまう。これを行苦という。

 

ところで、苦苦はわかりますね。

棒で殴られたときの激しい痛みは、まさしく苦そのものです。

壊苦もわかりますね。快楽の対象が壊れたときはとても苦です。

 

一番わかりづらいのは行苦です。

 

芭蕉に、こういう句があります。

 

衰ひや 歯に喰い当てし 海苔の砂

 

芭蕉の時代では、海苔に砂が混じっていることはよくあったそうです。

それまでは砂があってもなんでもなかったのに、

ある時に、砂を嚙んだ瞬間、苦痛を感じたのです。

芭蕉はそこに身体の衰えを感じます。

このように、それまでは、不苦不楽受であっても、感受する主体である身体が衰滅していくことからだんだん苦に変わっていくのです。

これを行苦というと私は解釈しています。