仏教についてのひとりごと 56

<<〈生存と衰滅を共に捨てる〉
  私は、『スッタニパータ』においては〈二元対立の超越〉を教えられ座右の書となっています。〈二元対立の超越〉によって〈不二中道〉という道が開けるという、釈尊の中道の原点だと
思っています。>>

なるほど。二元対立の超越、不二と捉えるのですね。

仏教は、非常に高度な哲学、形而上学的教義を作り上げてきました。
しかし、私がスッタニパータを調べて思うのは
仏陀は、哲学的な思考や形而上学的な教義では解脱に赴かない、としていることです。

<<師は答えた、「サビヤよ、みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅
とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくす人、
――かれが(修行僧)である。>>

この【生存と衰滅】ですが、いま手元に原文がないので推測ですが
【生存】の原語は、bhava(有)ではないでしょうか。
そして、【衰滅】は、老死に代表される、生じたものが辿るところだと思います。
ですから、【生存と衰滅】の私の解釈は、どちらも十二縁起の中のもので
苦の原因、そして苦そのもの、のこととします。

つまり、この文は
【八正道を修して完全な涅槃に達し、疑いを超え、苦の原因と苦そのものを捨てて、迷いの世の再生をしない人、かれが修行僧である】という意味に捉えます。

 

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<<四諦十二縁起の瞑想??
理解できませんが、四諦八正道と十二縁起観法でしょうか。>>

仏陀が言うように、四諦は象の足跡です。
すべての動物の足跡はその中に入ってしまうでしょう。
四諦の集諦は、十二縁起の順観
滅諦は、十二縁起の逆観 と捉えています。
もちろん、八正道は道諦ですね。

四諦には仏陀のすべてがあるというのが私の考えです。
仏陀が言っているように、中道とは八正道のことである、のです。

 

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pipitさん、ありがとうございます!
これは素晴らしいサイトです。
本当に助かります。
日本語訳では訳者によって意味が全く違ってきますから
パーリ語原典に当たらないと本当のことはわかりません。

これでこれから調べたい箇所のパーリ語がすぐにわかるようになります。
本当にありがとうございました。

 

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東大寺、私も大好きですよ。
東大寺南都六宗のうちの華厳宗ですね。
マイナーな宗派ですが、日本にある仏教宗派の中で一番好きなのは華厳宗です。
第一祖の杜順から智儼、法蔵、澄観、宗密とどの祖も好きです。

春の奈良ののんびりした雰囲気もいいですね。

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<<中村元の訳ではいけないのでしょうか?>>

中村元の訳は最も優れたものの一つだと思いますが
やはり、中村元の考えが投影されたものです。
あなたのいうように《それぞれの編集者の主観や解釈の入るのはやむを得ないのです》。

歴史上の仏陀が本当に言いたかったことを探求するためには、
どのような原語で表現されているかの把握は必要でしょうね。

あなたの立場を見ていると
たぶん、大乗仏教によってこれが真理だというものがあなたに既にあって
その、あなたが考える真理を、歴史上の仏陀も言っていることを証明したいため、自分の信念を強めたいためにスッタニパータを読んでいるのではないですか?
つまり、もうすでに結論があって、その結論に導くために読んでいる、という感じがします。

そういう読み方を否定しているわけではありません。
人それぞれ、自分の思うように読めばいいと思います。

ただ、私に関しては、歴史上の仏陀が本当に言いたかったことを探求したいと思っているので
あらかじめ結論を決めるのではなく、自由な立場から仏陀の肉声に近いものを探ろうと勝手に思っているだけです。

 

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<<この同教一乗と別教一乗の違いが今一つ納得できないのですが、その違いを教えていただけませんか。大先生おねがいします。>>

この一文で、あなたの本性、あなたの強烈な自我、が露わになりますね。
華厳経を研究している自分という強烈な自我があって、他の人が『華厳経』が好きだというたわいのない話題でさえ許せないのでしょうね。
そのような自我は、仏陀の教えと正反対です。

私の独断では、法蔵の同教一乗と別教一乗の捉え方は、第二祖と全く違いますね。
第三祖は、同教一乗の同教とは法華経で、他の教え、三乗と言ってもいいですが
それらを足し合わせた教え、超絶しない教えと捉えたと思います。
別教一乗とは華厳経で、すべての超絶した絶対一元の教えで、絶対であるが故にすべてを包括する教え、と捉えたと見ています。
あくまでも、私の独断でしかないですが。

 

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<<相変わらず中村元博士のバーリ語訳は劣っていて、貴女の先生の方が優れているという見解ですね。しかし、それは自我中心という我見という煩悩ではないのでしょうか。『スッタニパータ』では、そういう自己の見解に固執は存在しない、比較の思いから解脱しなさいとありませんか。>>

 

これはpipitさんに対するあなたのレスですが、あなたこそ、『それは自我中心という我見という煩悩ではないのでしょうか。』?

あなたこそ、自己の見解に固執しまくっているのがわかりませんか?

私が原始仏典を調べていると聞いて、pipitさんは親切にも、原始仏典のパーリ語原典がわかるサイトを教えてくれたのですよ。
なぜ、そのような善意をあなたは横からいちゃもんをつけるのですか?
あなたこそ、束縛され、固執し、承認欲求が膨張しているのですよ。

そのような卑小な精神になるのであれば、仏教などしないほうがましですよ。
仏教の知識があなたの自我意識の中核になっていて、かちんこちんになっているのです。
そのような知識なら捨てた方がいいですよ。

 

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<<華厳は「三界唯一心」を説きますが、貴方が名利を求めて仏教を語るだけだから
貴方が見る私の姿が貴方の姿でしょう。>>

あなたのその理論に従うと、あなたが見る私の姿が名利を求めて仏教を語るという姿であれば、
三界唯心により、それはあなたの心が名利を求めているからそう見えている、となります。
結局、自分の心を投影しているだけですよ。
『名』を求め仏教の知識を誇って承認欲求の道具にしたいのであれば、仏教を全否定などしませんね。
『利』を仏教になど求めるわけありませんね。私はすでに事業や株で十分富を得ていますので
利益を求める必要などないですし、仏陀の真意は仏教とはかけ離れたものだということを探求することがどうして利につながるでしょうか。

結局、あなたの理論に従うと、あなたの心があなたが見るものを名利を求めてあくせくしていると見せているだけです。


<<仏教は根本煩悩からの解脱で己事究明ではないでしょうか・
知識を飾るものではありません。>>

私は歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求しているだけです。
そして、仏教なるものが仏陀の真意からかけ離れたものになっているということに気付いているのです。だから、仏陀の真意を探求しているだけです。
あなたやmicや他の大乗経信者のように、仏教の知識など、誇ろうとも思いません。
むしろ、仏陀の真意ではないと否定しているのです。

仏教に解脱を求めていても、仏陀の真意からかけ離れている以上、どこにも行き着きませんよ。
まずは、仏陀の真意を探ることです。
あなたは<<根本煩悩からの解脱で己事究明>>を求めているようですが
あなたの文章からは、やはり自分の信じるドグマにこだわり束縛されて悪感情を垂れ流している波動しか感じません。
あなたの知識があなたの強固な自我を構成しており、そこに触れると解脱など吹っ飛んでしまってとたんに憎悪の心となってしまっているのです。

 

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<<仏教は一元論をという実体を説きません>>

仏教の哲学の二大潮流は、天台哲学の性具と華厳哲学の性起の論争でした。
真如にはすべての存在が具わっている、か、すべての存在は真如より起きるか、です。
実体的な真如を想定しないならば、ただの虚無思想になります。

<<理が消える「事事無礙」を説く華厳が一元論を説くはずはないでしょう>>

あなたは、事事無礙が、『理』が消えているとでも思っているのですか。
それであれば、全く華厳をわかっていない。
根本に理があるからこその事事無礙ですよ。
禅の十牛図の最後の図のようなものです。

<<一元論は多元論に縁ってあり、結局は二元論に陥ります>>

これも哲学的には何の意味もないことです。言葉のお遊びですね。
なぜ一元論が多元論に縁っているのですか。
特に、華厳の別教一乗は、超絶した一乗ですよ。
超絶しなおかつ一即多 多即一 ですよ。

<<私は、貴方のような仏法を自己本位にねじ曲げる方らから仏法を守護したいだけです>>

あなたの理論や解釈以外のものは世に溢れています。
というよりか、あなたの理論や解釈以外のものがほとんどです。
あなたの理論以外を信じているものをあなたは滅ぼしつくしますか?
それはテロをする人間と本質的に同じです。

仏陀は自分の理論が正しくて他が間違っているとして論争するな、と言っています。

人間は結局、自分の信じるドグマに束縛されて争う愚かな存在で
仏陀の真意とは正反対に、仏教も理論化し哲学化しドグマの一つになってしまったということです。
ですから、仏教は仏陀の真意とはかけ離れている、と思っています。

 

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<<華厳教学の祖師たちを持ち出したから、その華厳教学の話をしているのです>>

華厳教学ではなくて、第一祖からの華厳宗の祖師たちが好きです、と言っただけですよ。
例えば、私は法然が好きですが、別に浄土宗を信仰しているわけではありませんし
末法思想など虚構だと思っていますし、法然の思想に惹かれているわけではありません。
衆生を救おうとするその真摯な人柄が好きなだけです。
それをあなたは、歴史上の人物として法然が好きです、という話をしたら
急に押しかけてきて『法然が好きというが選択本願念仏集のここにこういう言葉があるが正しい解釈をして見せろ』と言ってきたようなものです。

<<自分の思いも言語も、一切の「教」を否定したらどうですか。
そこまで否定するのが仏陀です。>>

私は、仏教というものが仏陀の真意からかけ離れている、と言っているのですよ。
あなたはあくまで、仏教がすべて歴史上の仏陀の言ったことだと信じている、だから仏教は仏陀の真意ではないというと仏陀を否定したと思うのです。
私は仏陀を肯定するから、後世作り上げてきた仏教というものが仏陀の言っていることと全く違うものになっていると感じているだけですよ。

<<仏陀には、しっかりした修道論があります。苦行から「中道」の修行です。四諦八正道が分析発展した「三十七菩提分法」。それを否定すると、仏陀が陽炎のような虚無になるではありませか。>>

何度言ってもわからないようですね。
仏陀四諦八正道を説きましたが、後世の仏教ではそれは正しく理解されなかった。だから上座部仏教大乗仏教も、四諦の法や十二縁起を瞑想するところはありません。
つまり、仏陀が残した筏を捨ててしまったのです。

 

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私の持っている『華厳五教章』(大蔵出版・仏典講座)の46ページにこうあります。

『現実の絶対肯定と、個物の円融を説く華厳思想は、たしかに観念形態としては、きわめてすぐれたものであったにちがいないが、実際に人びとの魂を救う、生きた宗教としては無力に等しかった。それは単なる哲学で終わった。生きた人びとの魂の琴線にふれることはできなかった。』

あなたは<<華厳や唯識はしっかりした「修道論」があります>>と書いてますが
哲学、観念に終わってしまったから、禅宗に取って代わられたのだと思います。